じじ日報

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学問も生活も1次言語の一つ!?

 学生から化学の勉強をどうしてしなければならないのか?と聞かれることがある。究極の質問といえば、そうなのかもしれない。これに対して、教員がすべき答えも何通りか考えることができる。しかし、そのような君の将来のためなどということにあまり大きな意味もない。なにせ大学で学ぶことをそのまま社会人になって利用する機会などとは断言できないまでも皆無であると言って良いからだ。その意味において、大学でなぜ化学を、学問を学ぶのかについて少し考えると、次のようになるかもしれない。

 

 ヒトを始めとする哺乳類は、比較的大きな脳を持つ生物である。なぜ脳が発達したのかと考えれば、判断を迫られたときに適切な判断をしたものが生き残る確率が高かった。また、そのような判断は多岐にわたり、その延長線上にヒトもあって、なんらかの「必要」があるのだと考えることができる。しかし、必要であったから今があるのでは無いのかもしれない。進化について考えるとき、ある変化が起こった後に「選択」が行われる。もちろん選択とは、結果としてそのようになることを指すのだから、選択すべき対象はすでに揃っている必要があるのだから、変化は先に起こりのちに選択される。そう考えれば、ヒトの脳の大きさは、今後の選択材料である可能性もある。

 

 そのような潜在的能力を未来の選択に対する可能性として授かった自分が、それではどれほどそのファンシーな頭を使っているのか考えてみれば、それほど使っていないことに気がつく。これはあくまでも感覚的なものだが、実際に血流量などの計測によって脳が常に活発に機能しているわけではないこともわかる。そうすると、使わないものがそこにあって、必要に迫られたときに使う可能性があるというのにも納得がいく。そのようなものは、あってもなくても良いものであって、なんらかの具合で機能が限定的になっても現状の思考や生活は維持できる。すなわち退化の可能性を秘めているし、また、そのような機会も多いだろうということができる。必要なものは、常に使われなくてはならないのではないのではないだろうか。それでは、もしかすると不必要に大きな脳を何のために使うのかということになる。化学を学ぶためにあるのだと、どう考えてもならない。そうすると、目的は何にせよ、来るべき審判の日に何らかの判断をし、ファンシーなー脳の能力を発揮し得たものの中から次世代を担いうるものが選択されるということだ。


 この仮定に基づけば、学習するのはもはや何でもよく、とにかく何らかの判断材料、これは様々なシチュエーションに対応できるように考え得る、あるいは、考えが及ばないような設問であっても良いいのだが、そのような判断の材料を脳を鍛え使うために与えることが大切であるということができる。しかし、なんとも切ないのは、個人が脳トレをしているからといって、その個人が何らかの不足の選択を迫られた時、また、そのような時に「正しい」判断ができなかった時にいともたやすく将来を否定されてしまうことだ。生命が生き延びるということはそのように曖昧で、個体レベルの話ではないということだろう。しかし、個体の努力がない時、「正しい」選択ができる可能性は下がり、その意味において集団が生き抜く可能性が低下する。だから、いろいろな理不尽を知りつつも、我々は個人としての義務を果たしていかなくてはならないのだろう。

 

 なぜ学ぶのかの問いには、簡単には答えることができない。ただ、遠い未来に我々種族が、あるいは、その末裔が命をつなげる可能性を高めるための努力であるということができるだろう。また、今ある我々は、私は、かつてのそのような個体の努力の賜物であるということもできる。だから、日々生活することも、学校で学ぶことも、ゲームをすることでさえ、私たちの脳を鍛え、回路機能を保つための複雑なパラメータ群であって、この意味において我々は、我々が気づかないところで、1次的に脳でのコンピューティングに関わっている。我々は、脳がどのようにして「思考」を達成してその結果として「判断」へと導いているのかを知らない。しかし、インプットしたパラメータ群とその後のプロセスによって得られた結果は、我々の判断基準を作り、生活を支えている。また、これによって、化学の知識と考える力がつき、これを学んだ者同士での共通認識を獲得するいいうことができる。この知識と判断能力そのものが、脳の一次言語と判断力によって得られるプロセスの全てであろう。

JUGEMテーマ:こころ

語学を学ばず自分を磨く

大学には、多くの語学関連科目があるし、他国の大学との間での協定に基づく語学留学制度まで用意されている。なかなか学生のために良い、と思ってきた。

 

しかし、よく考えてみると、本当に良いことなのかがよく分からない。そこまでして学生に語学教育をしようとするのはなぜか。なぜそこまでして我々が語学を学ばなければならないのか。グローバル化、コミュニケーション…。そもそも、言語は道具である、と私は思う。頭の中に構築した論理、判断基準、概念、情景、感情、思考、図形など、ありとあらゆる人類にはまだその本質が何であるのかすら分からない、何かを的確に表現し他者に伝えるために発明された道具である。言語学者、また、それを目指す者でもない限り、語学についていつまでも勉強しても「身につく」ことはないのではないだろうか。言語は道具である、その考えに基づけば、例えば仮に大工道具マニアがいるとしよう。彼は、様々な道具に興味があって収集している。しかし、彼はその道具で何かをしようとは考えていない。道具を持っていること、また、それを愛でることが好きなのだ。あるいは、単に物欲が深いこともあり得る。例えば英語教育は中学で始まり、大学生にもなるとかなりの教育を受けているということができる。最近では、さらに「その重要性」から小学校から教育を開始するとも聞く。私にすれば、そんなに道具を集めて何に使うのか?ということである。

 

道具は使うためにある。大工道具は家にかかわる何かを作るためにある。一般庶民とすれば、本棚かもしれないし、日曜大工でガレージを作る人もいるだろう。言語は、頭の中にあるものを他者に伝え、また、他者から聞き相互に理解をするためにある。要するに、コミュニケーションのための道具である。とにかく何かを作ろうとするときには、プロの仕上がりでなくとも味のある良いものができるものである。言語においても伝えたいことがあれば、道具が少なくても伝える努力があって最終的には伝わるものである。

 

そうすると、何を伝えたいのか?そのような伝いたい「ネタ」を持っているのかどうかの方が重要であるということになる。このネタは、なんであっても良い。最初はコミュニケーションに価するものであって、会話の対象となるものとの理解で始めることになるのだろう。挨拶や天気などのいわゆるスモールトークがまず思い浮かぶかもしれない。しかし、これをマスターしても、本当にあなたが伝えたいと思っていることは伝えられない。しかも、スモールトークの奥は深いとしても、一般的には語学を学んでいるようなエントリークラスとしてのスモールトークは定型句でしかなく、そんなものはいつでも身につけられそうだ。それでは、何なのか。やはり、自分が好きな事柄、趣味や食べ物や、宇宙ネタ、ダイビング、車、虫、旅行...なんでも良い。何か好きなものがあるだろう。他の人よりもちょっとくらいは造詣の深いものが、多分あると思う。そのよな事柄について、興味を持っている人もいることだろう。そうすると伝える内容がそこにあることになる。

 

それでも語学を学びたいという方は、何としてでも教師や同級生との会話を楽しんでほしい。それでなければ、語学を習っているのではなく趣味で知識を収集しているだけである。収集癖があるのか物欲からかである。そのような道具にこだわることなく、もっと自分を磨くのがよい。

 

 

JUGEMテーマ:日常

町田野津田公園のばら

 町田は多摩丘陵の端のまだまだ自然の残る場所です。

 5月も中旬だが梅雨はまだ先、まだまだ新緑の感じが残る。気温は25度くらいで爽快。晴れ上がり野津田公園に行く。

 野津田公園は、町田市民がスポーツに散策に教育活動に合宿にと色々な行事が出来るようにと整備されたかなり広大な公園だ。娘が小さい頃ここで開催されたマラソン大会に参加した。

 バラが見頃を向かえているとの情報を得て見に行た。鎌倉街道から綾部原トンネルを抜け小野路の交差点を左に入り、野津田公園北を更に左、緑に囲まれた道を進むとほどなく入り口(北口)。ここから更に進み、競技場の手前に駐車場がある。

 ここから北西に雑木林の斜面の小道を登ると、「なんでこんなところに民家が?」と思う家があるが、これは合宿所のようで「小野路屋敷」とのこと。ここを通り抜け丘を下るとバラ園が見えてくる。

 この時期まだ1、2分咲き。しかし、咲き始めの開ききっていない花は美しい。何枚か写真を撮る。

 名前には関心が無いがものすごく甘く強烈に良いにおいのするバラも。2、3メートルの木もある。バラは乱雑なブッシュで、とげがあって、アブラムシがいっぱいで、草なんだか木なんだかわからない、あまり好きな花ではなかったが、よく見るとなかなかいい。

 周辺にはいろいろと見所はあるようなのでまたの機会に行ってみよう。ウグイスの声がずっと聞こえている。湿地にはカワセミが見られる場合もある!

 町田にはあちこちにほのぼのとしたスポットが点在していますので、ドライブがてらいかがですか

 町田良いとこ一度はおいで!

<趣味>


JUGEMテーマ:日常
振動する宇宙と時計

  以下のわけの分からない説明はさておいても絵にあるようなスパイラル方程式を作って円形の液晶に映し出せば時を動く模様として表すことができます。直感的には、それぞれの色がゴムでできていて混ぜようとしても混ざらず分離したままのびて渦ができていく。そうするとゴムの力で引き戻されて右回りと左回りを繰り返す。この振動周期を24時間に合わせれば時計の出来上がり。渦巻きの向きが午前後を示し、複雑さ(周期)が時間を表すことになりますが、視覚的なものとしかならないでしょう。

 

 さて、宇宙が二つの相容れないエレメントから成り立っていると仮定してみよう。これらが初期状態でどのような状態であっても良いのだが、何かのきっかけで振動を始めるとする。しかし、そんな突飛押しもないエネルギーがどこから来るのか?ということになってしまうので、逃げ腰で最初から動いているとしても良い。この二つのエレメントを水色と黒で表すとし、宇宙の全体の”形”を単純なトポロジーの円であるとしてみる。複雑な状態を避け単純化された状態のみを考えていくととし、この変化の状態を見渡し時間分解してみよう!!!

 北半球と南半球に二つのエレメントが分かれているときが最も単純な宇宙で原始宇宙と位置づけることができる。しかし、これは動きの中での一瞬の状態。北半球に「黒」が集まった状態から出発。二本の棒を黒と水色世界の表面を刺して左に回すと棒に引きずられて黒世界と水色世界がニュ〜とタイチー模様に!そのままあるスピードで回していくとどんどん「複雑なタイチー模様」になってくる。それぞれの世界が元に戻ろうとする性質があることを前提とすれば、どこかでこの力と回る力が拮抗して、逆回転し始める。元の状態を通過してまたどんどん複雑となりこれの繰り返しとなる。

 この”宇宙”を時計と考えれば、普通の時計は12時間で完結しているように、ここでも12時間で同じパターンとなるが回転方向が逆となるので一目瞭然。

 

 仮に私が片方のエレメント中にしか存在できないとすると、最も単純な状態の宇宙では端から端まで最短距離での移動距離は円周の半分なのに宇宙が複雑になっていくとこの距離がどんどん長くなる。宇宙はビッグバンで始まったといわれているが、実は複雑化している過程と考えても説明がつくのではないか。「ある次元」、あるいは、「ある空間」の中に存在する我々人類にはどれだけがんばってもやはり「ビッグバン」でしかないのだが。

 

 私の頭にうごめくオルトゴナル宇宙/1994年に発表したオルトゴナルグリコシル化なる有機合成の概念を絵にしようとしていたときに、喫茶店でコーヒーにクリームを入れて混ぜたときにこれを思いつきました。


 しかし、太古からの言い伝えにある二局宇宙観と呼応する考え方であると思います。特にある一瞬はタイチーの文様と同一となり、また、陰陽説「混沌から生まれた全ての源」に通じるところが面白い。そう思いませんか?

ダイナミックな地球
 タクラマカン砂漠とゴビ砂漠の存在する地形とは


 月にはあれほど多くのクレーターが存在するのに地球にはあまり見つからない。この理由は分厚い大気層があり燃え尽きてしまうから。しかし、これは小さな隕石の話し。よく見ると桁違いに大きなクレーターと思われる地形があります。ただ、決して認められた物の見方ではありませんので、あくまでも私的な観察として以下書いていきます。

チベット高原の北部の広大なタリム盆地は、何らかの天体の接触によって形成されたように見えます。注)標高方向に拡大した図です


 タクラマカン砂漠はタリム盆地の全域を占める広大な砂漠ですが、宇宙からこの場所を見ると涙型にへこんでいる。周辺との高低差は何と約4000メートル。南側はチベット高原であり、北側はロシアの海抜500メートルくらいの台地との境界に3500〜4000メートルの山脈を形成しています。学説ではタリム盆地は、コールドプルームの落ち込みにより地表面が引き込まれることで形成されたとされています。しかし、この説には無理がある様に思われます。落ち込んだ北側にどうして「外輪山」のような山脈があるのか。しかも、タリム盆地周辺の外輪山等を2000キロメートル程度の範囲に渡って観察すると東から西へと方向性をもって涙型に並んでいます。このような構造は、コールドプルームによる地殻の引き込みによるのでなく、小惑星が非常に遅い速度で浅い角度で接触することによって形成されたように思われます。確かにタリム盆地の下方には日本海から沈み込んでいく太平洋プレートの末端が沈んでく場所と一致していますが、モンゴルにあるこの地形の形成を完全に説明するものではありません。さらによく観察すると、同様の「タッチダウン痕」が複数あるようにも見え、これらには順序があるように見えます。

 他にも特に注目したいのは、Buuntsagaan Lake, Dorgon Lake, Har Lake, Hyargas Lake, Uvs Nuur (Lake), Hubsugul Lake周辺の場所です。外側はやはり大まかに東から西へと向かう涙型の「外輪山」を形成しており、中心部は幅200キロメートル長さ400キロメートル程度、高さ500メートル程度のなだらかな丘陵地があります。

 これらの地表面の構造は、一般的な隕石の衝突によって形成される単純クレーターや複雑クレーターの理解からすると規模や形態が異なっているかもしれません。しかし、浅い衝突角を持ち、「低速」で飛来する天体の衝突を想定する場合の例はないと思います。モンゴルにある構造は、そのような天体衝突痕ではないでしょうか。地球創世期、ジャイアントインパクトにより宇宙空間にはじき飛ばされた地球の部分の一部はしばらく不規則な軌道を周回していたことでしょう。それらの一部が地球に降り注いでたことと思われます。

 はたして過去の地球に何がおこったのか


JUGEMテーマ:宇宙

皆が「だめだ」という良いアイデア

 世の中には出ないもののものすごくたくさんのアイデアを出し、何をしていくのか決めるのですが、ここに紹介するのは未来のための抗体アレーです。抗体でなくてもいろいろと考えられますが。本当は自分でやってみたいのですが、時間と環境とお金と...全てがそれを許しません。おまけに可能性についての議論を持ちかけても完全否定されてしまう始末。だからといってアイデアそのものが悪いわけではありません。

 オリジナルは、2002年に簡単な提案書のようなものを作っていたのですが、月日が経てどもいっこうに研究が出来ませんので公開します。

 ポイントは抗体はそれ自身が抗原と認めた「分子の部分」を認識するわけですが、これは免疫染色の根幹についての矛盾でもあります。すなわち、例えばあるタンパク質によって誘導された抗体はそのタンパク質の部分アミノ酸配列のうち特定の官能基や側鎖などの空間における立体的な表現を見分けているのです。ということは、部分的に同じシーケンスを持つ別のタンパク質に対しても結合する可能性が高いですし、全く異なる物質であっても同じ、あるいは、同様な官能基の表現型を持っていさえすれば反応(クロスリアクト)するわけです。決して1対1ではありませんね。

 これ自身がタブーなのかもしれないのですが、概念的にはこれに基づいてできるだけ多くの構造既知物質とクロスリアクトする抗体をスクリーニングしようとするものです。抗体はアレー化し、何を認識しているのかを追求する必要もありません。

 私達がものを食べる時、味蕾にある細胞のレセプターで食物の成分を分子として認識し、これを電気的刺激に変換し、脳で分析し堪能する。(あ〜 うまいものもうまくないな こんなこと言ってたら)単一の物質を解析するばかりでなく、極めて複雑な分子のスープを立ち所に解析し、舌に乗せた途端に「うまい」とか「まずいとか」さらには「こくがあって円やかで」などと言ったりする。(僕は言わないけどね)もしかすると何千もの各々の分子の認識現象をミリ秒程度で解析し、さらに、脳内のデータに照合し、判断し、筋肉を動かしている。本当にこのような力ずくのプロセスを行っているのかも知れません。もしそうならかなりの処理スピードです。

 しかし、私は、もしかすると異なるプロセスで迅速に解析をしている可能性があるのではないかと疑っています。将来、この疑問を解くために、知恵?を絞ってみました。もし、私の憶測が外れていた時に皆さんを巻き添えにするわけにはいきませんので、もう少し現実的な研究成果の出口に関しても考えてあります。

 

 それでは、ポンチ絵で概略を説明していきます。

 世界中の研究者がモノクローナク抗体を毎日のように使い細胞内外のタンパク質の存在の特定を行っています。抗体による染色が特定物質のみを観察していることと同義かどうかは別として、分子認識がそこでおき、私達はこの現象を利用しています。

  






 しかし、多くは「非特異吸着」の理由から廃棄されています。これらを宝の山としてどんどん抗体を収集します。前段階としては、抗体賛成細胞のバンクを作るのも良いでしょう。多くの抗体が抗原として使った多くのタンパク質のうちの共通項に対するものである可能性がありますが、そんなことはおかまい無しです。







 数万の抗体が集まったらいよいよアレーの作成です。何をどのように配置してもかまいませんが、「記録」だけは念のためにしておきましょう。

 







 一方、スクリーニングに使用する化合物ですが、こちらにも問題があります。分子に例えば蛍光標識を施す時、リンカーを結合した場所はリンカーや標識によってマスクされてしまい、仮にこの部位が認識に必要であった場合には情報を得ることができません。そればかりか誤った情報を与えてしまいます。

 この問題を解決するために、様々な部位にリンカーを導入する必要があります。極めて反応性の高い化学種、例えばカルベン種を用いてリンカーをランダム(とはいえ、反応する官能基がある場所に限られますが)に導入します。このような化合物群に蛍光標識をおこなうのですが、通常の方法では「複数の分子の集合」となってしまいますので、ここで更に一工夫。

 蛍光性のある半導体ナノ粒子が最適でしょうか。これに、先ほどのリンカー付き化合物を反応させます。当然、先ほどのリンカーは2官能性で一方は個々の分子のあちらこちらに結合していますので、もう一方の官能基を使ってビーズに導入するわけです。そうすると、あたかも1ビーズが1分子のような表現型を示すようになります。不特定位置にリンカーを持つ特定分子の混合物と1ビーズの反応であり、統計的に判断すれば単一分子を再構築できると考えられます。

 このようにして作製した分子被服ビーズを使って先の抗体アレーに片端からスクリーニングします。仮説が正しければ、複数の抗体が反応し、蛍光のシグナルを与えてくれることとなります。ここからは、データマイニングに徹することとなります。その後、「十分なデータ」収集ができたら、「経験」の完了し、いよいよ経験の有効性を確かめる段階です。

  

 未知の医薬品や農薬候補物質を先ほどの抗体アレーでスクリーニングします。類似する蛍光レスポンスのパターンをデータベースに参照し類似する物質群を検索します。単一の分子が返されるとは限りません。これは、抗体が分子の一部と反応しているためで似て非なるものが多く存在する可能性があります。理解しにくいので、このように言い換えることができるでしょう。「この医薬品候補は、薬効は期待できるが毒性も高い可能性がある。」これは、機能発言する官能基の特徴を持っているとともに、毒性を示す官能基をも有するという意味で、各々の情報が別々の分子から提供されデータベースにマイニングされていたことを意味します。


 全てが仮定に基づいていますので、やってみなければ何も分からないのですが、実験動物を極力減らすことに大きく貢献すると考えられます。その他にも非常に多くの利用が簡単に考えられます。また、さらに、この考え方は、必ずしも抗体にのみ適応可能なわけではなく、ありとあらゆるカテゴリーの分子に適応できます。


 10年まえのプロポーザルですが、今から5年してまだ誰もやっていなかったら死ぬ前にやってみようかな。



 JUGEMテーマ:自然科学
鬼子
 

鬼子というのは、自分(達)と異なる容姿の子や民族、人種等を指すことばでいわば差別用語です。


以前、あわれな「ヨシキリ」と社会構造を書きました。そこで、社会はそこから「はみだした」者を認知できないことを指摘しました。この「はみだしもの」も概念的には「鬼子」ということができます。


私たちは、様々な理由で社会から簡単にはみだす可能性があります。身体的問題、浪人、留年、怪我、病気、出産、解雇、倒産、解散、クーデター、戦争...マジョリティーが社会を形成し、この社会の構成員からはマイノリティーの姿が見えません。


具体的な問題を逐一書くとそれはそれで問題が多く、立場上もそうすることができないと思っていますので、このように概念的に一般化していろいろな主張を行っています。しかし、無形の概念を説明し、理解して頂くのは極めて困難です。


ただ、次のような例を一般論としてあげることができますのでいくつか挙げます。


病気で苦しんでいる人に対して「がんばれ」

容姿で悩んでいる人に「そんなことないよ」

就職できない人に「だいじょうぶだよ」


このような言葉は、人を気遣ってかける側面を持つ一方、全く親身になっていない無責任な言葉としての側面もあります。私たちは、もっと気を使う必要があります。悩み、困っている人は、そんな「言葉」を期待しているのではないのです。具体的に何をどうすれば良いのか、そんな答えであり、答えへと続くヒントのようなもの、あるいは、きっかけでしょう。


私たちの社会にはいつの時代にもいわゆるヤンキーがいて町の鼻つまみものです。私たちは、彼らをどのように見ているでしょうか。私は、個々人は彼らを見ているものの社会としては認識していないと思います。彼らの考えや思いに一切耳を傾けようとせず、排除のみを考えています。


様々な局面で、概念的に同じ排除作用が働いています。排除されていると感じている者には、これが手に取るように分かりますが、マジョリティー側の者には全く理解ができません。


会社など様々な形態の組織の構成員一人一人は「鬼子母神」について知っておく必要があります。多くの子の母でありながら、一方で子を食らう。私たちは、社会の、組織の中にいてこれのために必要なことを行っている一方で、何らかの理由で鬼子となってしまった者を知らず知らず排斥している。数千年前から概念として同様の事柄が起こっていて、今の世の中でも全く状況は同じです。


私は、今までもこれからも心はヤンキーでうんこ座りでがんばっていきます。これが最大限の宣戦布告です。トホホ

JUGEMテーマ:日常

Conglomerate
 

JUGEMテーマ:日常

kənɡlάmərət


「独立した複数の要素の固まり」を表す単語です。

ルー大柴(リンクしてあるサイトは面白いですよ!)風に言えば「Glomus(糸くずの塊)がtogetherしてる」でしょう。類義語にagglomerate(凝集塊)があります。これらの差は、構成要素の独立性でしょう。一般的には、科学にも経済学にも使うことができる単語です。


 さて、これがどうしてこれからの時事英語かというと、昨今「複合企業」と呼ばれる会社が多く存在しています。どこかに大きな資本があって、あまりにも多くの異種事業を展開する多角経営を行っていて、総体としていったい何をやっているのかやろうとしているのか分からない類の企業体です。私は、大変うさんくさいと思ってみていますが、誠実に経営されているようであれば申し訳ありません。このような企業体は一国内の組織でなくても良い訳で、多国籍複合企業もありです。


 問題は、要素としての企業が事業を行うことは目的が分かり易いのですが、そのような多くの相互の関係すら分からない企業の総体の目的は全く理解できません。これに対する恐怖心からかもしれませんが、「何か裏で糸を引く陰」を感じ、将来に不安を覚えます。

 例えば、町の不動産屋さんがあなたの隣の土地を買ったのであれば「ああそうか」で済むでしょうが、得体の知れないconglomerateが買ったとしたら、「これからいったい何がおこるのだろう」と不安にかられるでしょう。これから近い将来このようなことがあちこちで問題となるでしょう。

 このとき、そのような企業体は悪意を持っているわけではないかもしれません。しかし本質的な問題は、企業である以上利益が上がれば良い訳で、この場合には総体として利益が上がれば良く、要素企業体の目的とは裏腹の結果を招く可能性があること。決して彼らは嘘は言いませんが、ただ未来は分からないので結果として「皆さんの希望に添うことができなかった」ということも多々あると思います。私は、このような企業体は政府の監視下におくべきと考えます。特に、電気(発電)、上下水道、病院、通信などライフラインとして重要な部分や、土地や森林については資本主義を無視してでも守っていく必要があります。


 余談ですが、考え方としておもしろいものを見つけました。21世紀COEプログラムの一つで京大院文学研究科で行っていた「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」プログラムの一部であった中務哲郎先生の「文学と言語を通してみたグローバル化の歴史」のサイトの階層名がglomus。先生は、グローバリズムに飲み込まれていく固有文化を糸くずに例えたのか、あるいは、糸くずの集まったものとしてのグローバル社会を考えたのか不明ですが面白い命名です。...誰も気にはしてないだろうな..


脳機能停止
 
今では、少し前の話しになってしまったが、高速道路利用料を無料化するとか値下げするとかしていました。当時、子供が聞くんです。
「高速道路の料金を下げて、利用者が多くなったってニュースで言ってるけど、電車より二酸化炭素出すよね。高速道路の料金上げればいいのに。」って。

子供心に矛盾に思ったのだろう。


巷には低炭素化、地球温暖化、異常気象、海面上昇、氷河融解などとこれらが人間が二酸化炭素を排出するためにこのような問題が生じていて、だから、脱二酸化炭素なのだと空気のようにお茶の間に浸透し私たちの脳を麻痺させている。


二酸化炭素の問題ではない。人間の欲の問題だ。もっと具体的に言えば、資本主義社会において利潤を求めることが良しとされ、これと欲とが融合した現在の人間性の問題だ。


物々交換より進んだシステムとしての貨幣の存在はすばらしい。手持ちがない時に代わりとなるものがあればそれでまかなうことができる。しかし、この考え方の悪い側面が、錬金術のように「何もしないで」手数料などで利益を得ることによって、この物の代替物である貨幣を集めようとすること。そうすれば、何も持っていなくても食べ物が手に入る。(金融業の始まり)貨幣など本来何の意味も持たない単なる物の代替物であることを忘れがちだ。汗水流し、労働することにより私たちは食べ物を得る。これが当たり前。


食べていければそれで良いはずなのに、「より豊かに」などと言って必要以上に「利益」を得ようとする。だから、皆必要以上に一生懸命働く。その結果、必要以上にエネルギーを使用し、食べ物を食べ、二酸化炭素を放出して温暖化に貢献してしまう。企業も同じ。不必要に金儲けをしようと未だに「黒字」がでなければ会社が危ないとかなんとか言って右往左往。いろんな物を燃焼する。だから、人間の活動は、生物としてのヒトが必要とする以上の酸素を消費し温暖化に寄与する。


地球温暖化そのものが、本当は何が原因か分からないので、このような議論をしてもそれも無駄なのかもしれない。しかし、仮に低炭素化運動を推進しようとかするのであれば、温暖化をなんとかしようとするのであれば、やはり、問題視されるべきは皆さんの利益に対する考え方なのではないだろうか。


以前、「知的財産部」なる怪しい部署(これは個人的な考えで一般に認められています、もちろん)の人が言っていたことを思い出す。その昔、ヒトが備蓄を知らなかった時代、ある青年が穀物を貯蔵した。すると、集落の人たちからありがたがられ、皆から御礼をもらった。次の年、その青年は貢ぎ物をすれば食べ物をやることにして財を築いたとさ。と、まあこんな具合。これが知が財である所以なのだとか。


私は、知的財産というのは、人類の財産であると思う。したがって共有すべきものである。諸悪の根源はあの集落の青年だったということか。


二酸化炭素についても、うさんくさい話しがたくさんある。偶然だとは思うけど、チェルノブイリの原発事故から数年後に温暖化ガスの問題が叫ばれ始めたように思います。チェルノブイリの事故は、世界的に原発についての世論を一致させるのに十分な役割を持っていた。ある考え方のみが支配的となることは健全と思わないが、原発については私は基本的に反対です(核エネルギー等の研究•開発には賛成ですが)。事故はそんな反対者の危惧を具体的に示し、満足させたということができる。賛成派は当然推進力を失いました。


その後、間もなく地球温暖化がにわかに大問題として取り上げられるようになりました。


さらに、気になることは当時ブッシュ大統領が温暖化対策には原発が最も良いとの発言をしてました。ゴア副大統領とスタンフォード大のシュナイダー博士(故人)がノーベル平和賞を受賞しました。シュナイダー博士は気象学者で将来の地球環境をシミュレートすることをしていました。もちろん、温暖化についての議論もありますが、寒冷化についても述べていました。一応、火力発電所は二酸化炭素を大量に「生産」しますから、二酸化炭素削減に貢献することは確かでしょう。しかし、原発は放射性廃棄物も「生産」するし、安全について世界中の人々を説得できるほどのものを示してもらった覚えもありません。温暖化問題を最初に取り上げ「問題提起」した人が、原発推進派であったとすればいろいろなことのつじつまが合う。


今はと言えば、3.11の震災後の福島原子力発電所事故に端を発したこの度の世界的な反応は当時の事故後の世界の動きと呼応するようです。すると、この後に起ることは...だいたい予想が出来そうですね

矛盾のない社会を、人間性の向上を目指す社会をつくろう


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仮想現実とポケモン
 
 最近子供向けのアニメが良くできていますが、これは大人が考えてSFファンタジーとして良くできているということで、そんなことはおかまい無しにアニメにはまり込む子供には注意が必要です。


 子供がポケモンのゲームを持っているので、使っていない時にこっそりとやって見たりして、当然、後でばれて怒られちゃう。...最初は意味不明だったのだが、これは面白い。これは子供が思っている面白さとは全然違うと思うが、ゲームの存在様式そのもの、というか概念が面白い。何を言っているかというと、ポケモンが消耗した時にポケモンセンターに行って回復させるのですが(医者にかかるような感じ)、ここにあるコンピュータ端末を使うとゲームの中でポケモンを交換することができるようになっている。そんなことしてどうなるの?と思ってしまうのだが、実はゲーム機に赤外線通信ポートがついていて本当の友達(その子もゲームの中でポケモンセンターで端末に向かっている)と向かい合ってゲーム経由で実際のゲーム機を操作して、現実の友達と交信しているのだ!面白い。普通はコンピュータの中にゲームがあるので、何かをする時にはゲームから出て、コンピュータで何かするのだが、ゲームの中にコンピュータがあって、それを操作するようになっている。実空間と仮想空間をあのゲーム機とポケモンというゲームでつなげている。


 というわけで、ゲームではなくてコンセプトが面白い。


 でも、実は本当は怖いことなのではないだろうか。このようなすばらしいゲームが無かった時代に子供であった私たち大人は、ああ面白いことしてるんだな、ですむのだが、子供にしてみれば、現実と仮想現実が自然に繋がっていて境目が分からない。


 ポケモンに限らず、最近のSFファンタジー物のアニメは多くが現実と非現実や仮想現実を行ったり来たりする仕組みで非常に面白い。鍵になっていることは「成長」であり、言ってみれば現実逃避から立ち直るというクラッシックな設定だ。これが分かれば良いと思うが、面白いストーリーがかぶせられていて本質が見えにくい。


 大丈夫かな?


 子供のためにもう少しメッセージの単純明快なものを作ってほしいな


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