じじ日報

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学問も生活も1次言語の一つ!?

 学生から化学の勉強をどうしてしなければならないのか?と聞かれることがある。究極の質問といえば、そうなのかもしれない。これに対して、教員がすべき答えも何通りか考えることができる。しかし、そのような君の将来のためなどということにあまり大きな意味もない。なにせ大学で学ぶことをそのまま社会人になって利用する機会などとは断言できないまでも皆無であると言って良いからだ。その意味において、大学でなぜ化学を、学問を学ぶのかについて少し考えると、次のようになるかもしれない。

 

 ヒトを始めとする哺乳類は、比較的大きな脳を持つ生物である。なぜ脳が発達したのかと考えれば、判断を迫られたときに適切な判断をしたものが生き残る確率が高かった。また、そのような判断は多岐にわたり、その延長線上にヒトもあって、なんらかの「必要」があるのだと考えることができる。しかし、必要であったから今があるのでは無いのかもしれない。進化について考えるとき、ある変化が起こった後に「選択」が行われる。もちろん選択とは、結果としてそのようになることを指すのだから、選択すべき対象はすでに揃っている必要があるのだから、変化は先に起こりのちに選択される。そう考えれば、ヒトの脳の大きさは、今後の選択材料である可能性もある。

 

 そのような潜在的能力を未来の選択に対する可能性として授かった自分が、それではどれほどそのファンシーな頭を使っているのか考えてみれば、それほど使っていないことに気がつく。これはあくまでも感覚的なものだが、実際に血流量などの計測によって脳が常に活発に機能しているわけではないこともわかる。そうすると、使わないものがそこにあって、必要に迫られたときに使う可能性があるというのにも納得がいく。そのようなものは、あってもなくても良いものであって、なんらかの具合で機能が限定的になっても現状の思考や生活は維持できる。すなわち退化の可能性を秘めているし、また、そのような機会も多いだろうということができる。必要なものは、常に使われなくてはならないのではないのではないだろうか。それでは、もしかすると不必要に大きな脳を何のために使うのかということになる。化学を学ぶためにあるのだと、どう考えてもならない。そうすると、目的は何にせよ、来るべき審判の日に何らかの判断をし、ファンシーなー脳の能力を発揮し得たものの中から次世代を担いうるものが選択されるということだ。


 この仮定に基づけば、学習するのはもはや何でもよく、とにかく何らかの判断材料、これは様々なシチュエーションに対応できるように考え得る、あるいは、考えが及ばないような設問であっても良いいのだが、そのような判断の材料を脳を鍛え使うために与えることが大切であるということができる。しかし、なんとも切ないのは、個人が脳トレをしているからといって、その個人が何らかの不足の選択を迫られた時、また、そのような時に「正しい」判断ができなかった時にいともたやすく将来を否定されてしまうことだ。生命が生き延びるということはそのように曖昧で、個体レベルの話ではないということだろう。しかし、個体の努力がない時、「正しい」選択ができる可能性は下がり、その意味において集団が生き抜く可能性が低下する。だから、いろいろな理不尽を知りつつも、我々は個人としての義務を果たしていかなくてはならないのだろう。

 

 なぜ学ぶのかの問いには、簡単には答えることができない。ただ、遠い未来に我々種族が、あるいは、その末裔が命をつなげる可能性を高めるための努力であるということができるだろう。また、今ある我々は、私は、かつてのそのような個体の努力の賜物であるということもできる。だから、日々生活することも、学校で学ぶことも、ゲームをすることでさえ、私たちの脳を鍛え、回路機能を保つための複雑なパラメータ群であって、この意味において我々は、我々が気づかないところで、1次的に脳でのコンピューティングに関わっている。我々は、脳がどのようにして「思考」を達成してその結果として「判断」へと導いているのかを知らない。しかし、インプットしたパラメータ群とその後のプロセスによって得られた結果は、我々の判断基準を作り、生活を支えている。また、これによって、化学の知識と考える力がつき、これを学んだ者同士での共通認識を獲得するいいうことができる。この知識と判断能力そのものが、脳の一次言語と判断力によって得られるプロセスの全てであろう。

JUGEMテーマ:こころ

鬼子
 

鬼子というのは、自分(達)と異なる容姿の子や民族、人種等を指すことばでいわば差別用語です。


以前、あわれな「ヨシキリ」と社会構造を書きました。そこで、社会はそこから「はみだした」者を認知できないことを指摘しました。この「はみだしもの」も概念的には「鬼子」ということができます。


私たちは、様々な理由で社会から簡単にはみだす可能性があります。身体的問題、浪人、留年、怪我、病気、出産、解雇、倒産、解散、クーデター、戦争...マジョリティーが社会を形成し、この社会の構成員からはマイノリティーの姿が見えません。


具体的な問題を逐一書くとそれはそれで問題が多く、立場上もそうすることができないと思っていますので、このように概念的に一般化していろいろな主張を行っています。しかし、無形の概念を説明し、理解して頂くのは極めて困難です。


ただ、次のような例を一般論としてあげることができますのでいくつか挙げます。


病気で苦しんでいる人に対して「がんばれ」

容姿で悩んでいる人に「そんなことないよ」

就職できない人に「だいじょうぶだよ」


このような言葉は、人を気遣ってかける側面を持つ一方、全く親身になっていない無責任な言葉としての側面もあります。私たちは、もっと気を使う必要があります。悩み、困っている人は、そんな「言葉」を期待しているのではないのです。具体的に何をどうすれば良いのか、そんな答えであり、答えへと続くヒントのようなもの、あるいは、きっかけでしょう。


私たちの社会にはいつの時代にもいわゆるヤンキーがいて町の鼻つまみものです。私たちは、彼らをどのように見ているでしょうか。私は、個々人は彼らを見ているものの社会としては認識していないと思います。彼らの考えや思いに一切耳を傾けようとせず、排除のみを考えています。


様々な局面で、概念的に同じ排除作用が働いています。排除されていると感じている者には、これが手に取るように分かりますが、マジョリティー側の者には全く理解ができません。


会社など様々な形態の組織の構成員一人一人は「鬼子母神」について知っておく必要があります。多くの子の母でありながら、一方で子を食らう。私たちは、社会の、組織の中にいてこれのために必要なことを行っている一方で、何らかの理由で鬼子となってしまった者を知らず知らず排斥している。数千年前から概念として同様の事柄が起こっていて、今の世の中でも全く状況は同じです。


私は、今までもこれからも心はヤンキーでうんこ座りでがんばっていきます。これが最大限の宣戦布告です。トホホ

JUGEMテーマ:日常

私の時間軸上での形
 

「私」は時間軸上でどのような形をしているのか?


 私たちは時間の「形」を見ることができません。しかし、私たちの世界は明らかに時間の存在とともにあります。仮に時間の「軸」を外から見渡せるような視点から眺めてみると、私というより存在はどのような「形」をしているのでしょうか?


 次元が多すぎて訳が分からないので物質をそぎ落として理想的な存在であると仮定してみましょう。


 また、未来にも過去にもある範囲の可能性があるとすると光の焦点のようなものになります。それで更にこの「存在」が光のような性質を持っているとすると、光には波長があって焦点は波長以下には絞り込むことができないので、「鼓」の用な領域が焦点ということになるでしょう。


 ...こ、これは、共焦点顕微鏡の話しになってしまう。ここでの存在はどのようなものか?何かうすぼんやりとした、変な形の領域に、時間軸上にも空間軸上にも広がったものではないでしょうか?この世界では、時間が見えませんから分からないのですが、実は私たちは未来にも過去にも、また、空間的にもある範囲に存在している...と。...もしそうであれば、予知云々とか、FBIの何やら捜査とかうさんくさいお話もまんざらでもないのかもって思えて楽しい。


今日もいい夢が見られそうだ


おしまい

こころ
たくましく危うい

進む君の姿をみてる

腹立たしく微笑ましい


立ち止まり走り

心の目で周りを確認しながら

君はどこへ行くのか


人を知り自分を知る

人と話し己を知る

世界は広がり小さくなる自分


心にひろがる広大な宇宙

持て余して怖じ気づく

大きくて小さな心


バランスと平和

心地よい言葉と響く言葉

広がり繋がる心と心


従属と独立

服従と反駁

固く柔らかく全ての源


最期のとき

何を得ているのかな

幸せだったと思えるかな


かごの中の鳥:We need a plan B, definitely.


 
経済状況がいっこうに回復しない。どうしてこうなったのか?どうしたら回復できるのか?あるいは、もしかすると、このような状況が普通の状況であって、私たちは、今後、このような状況を生きていかなければならないのか。
 経済状況について考えれば、いろいろな理由が考えられるだろうが、全ては結果論だ。そもそもこうなる前に予測できたのであれば、いろいろな手だてをできただろうに。今更、誰が悪いとか言ったところで何も始まらないし、今我々が直面している現実からの逃避のためのいいわけに過ぎない。我々が行なうべきは、今どうするべきか。また、今後どのようにすべきかを考え対策を講じることだ。


 しかし、現状はといえば、皆現実から逃げているとしか言い表し様が無い。会社の社長がテレビ番組に出演して会社経営の危機的状況を演出する。評論家が登場してアメリカバッシングをする。政治家が増税しかなす術が無いなどという。そんなことはどうでもよい。


 日本には伝承歌がある。例えば「かごめかごめ」は誰でも知っているだろう。


  かごめ かごめ

  かごのなかのとりは

  いついつでやる

  よあけのばんに

  つるとかめがすべった

  うしろのしょうめんだあれ


 何を言っているのだか分からないが、それでも我々のおかれている状況に当てはめることもできる。我々は資本主義の籠の中の鳥なのだ。会社も鳥かもしれないが、会社で働く労働者も鳥だ。

 会社は経営困難な状況に陥ると最悪の状況を避けるため、労働者の解雇が許されている。だから、鳥はやはり労働者ということに間違いは無いだろう。われわれは、今仮に逼迫した状況に無かろうとも、可能性として誰しもがそのような可能性の中に身をさらしているという意味で、全ての人は、この状況から抜け出すことができるだろうか?結論的には、決められた枠組みの中で何をやっても無駄であると言うことができる。我々は、外に何があるのか、外の世界があるのかさえ知る由もない。そうやって籠の中できょろきょろしているばかりの哀れな夕食のおかずとなる鳥な訳である。


 我々は、勇気をだして誰も知らない新しい世界に飛び出す努力をしなくてはならない。一方で、会社は現実逃避に気付く必要があり、必要のないかけに出て死んでいく人々を救わなければならない。何を言っているのか分からないようなものは、自ら「長」の職を辞するべき。役人も大臣も同じ。あらゆる職種、階級において当てはまるはず。


 先に書いたうように、「ある会社が経営難に陥ったとき、労働者の解雇というオプションが用意されている」ことには条件がある。「経済状況が通常の時期」というのが、条件である。他に働くための受け皿があることがその理由だ。労働者にとっては他の会社で働く方が有利な可能性すらある。現在のような状況のために用意された法律ではない。よく考えれば誰にでも分かるはずだ。会社(組織)はこれを利用して、言い訳としてこのルールを使い労働者を解雇しているに過ぎない。いつも弱者が強者に搾取されるのである。


 それでは今何が必要か?皆で苦難を乗り越える勇気と努力。それだけだ。今解雇されるものがどのような苦境に立たされるか、言い訳をせずよく考えなければならない。我々は基本的人権を有し、勤労し、教育を受け、生存する権利を有している。今必要なことは、憲法に明文化された基本的な人権を尊守しつつ会社経営をおこなうことである。安いコンプライアンスを合唱するのではなく、基本に立ち返る必要がある。


 真に考えるべきは薄っぺらな資本主義とか云う生き物の将来ではないだろうか。




 写真は竹細工の藤倉商店さんから拝借させて頂きました。

ラッシュ時の通勤電車にオアシス出現の謎
 

午後8時くらいに渋谷で田園都市線に乗り換える


通勤電車はいつも満員


みんないらいら


そんないらいらから逃れるようにみんな読書にゲームにiPodにのめり込む


そんな毎日を過ごすうち、満員電車に謎の円形陣が現れることがあることに気がついた


乗客が内向きの円陣を組むのだ


ここで考えた


生物が生きるためには水が必須

乾期のサバンナでは水が少ない

水を飲む動物の群れは必然的に円形陣を組むことになる

動物は厳しい自然を生き抜いている


共通点は円陣!


ヒトが電車で円陣を組む理由は何か


円陣の中でおこなわれるのは主にゲーム


厳しい自然を生き抜くのは至難の業


そのに何が必要か


凝視する目線の先にはサバイバルゲーム





テーマ:こころ日常

生物進化と座席位置

 ある駅始発の電車に乗ると皆さんの座る位置が面白いです。対面シートの端から順に埋まっていきますね。私は端にあまり座らないので、友人を対象に「調査」しています。端に必ず座るという友人に理由を聞いてみると、他人と触れる可能性を下げているのだそうだ。私は「他人」と積極的に触れ合いたいとは思わないが公共交通機関を利用して触れ合いたくないとも思わない。もしかすると友人の心理では「他人に触れる」=「敵に接触する」なのかもしれないと思った。今日、いつものように電車に乗るとお母さんと幼児が乗り、向かいに座った。その位置はお母さんが端で子供が「内側」(他の人と接する側)だった。


 有袋類と有胎盤類が生物の進化の中で出会ったとき、後者が勝ち抜いたのだそうだがこの理由が胎児を未熟なまま生む有袋類において脳の発達に十分な酸素と栄養が不足し、結果知的な差が出来るからだとか。有袋類にも利点はあるようだ。激しく変化する環境や事件に対して子を捨てて成体のみが行き伸びる選択肢があり、有胎盤類では長期間にわたって体内で胎児を育てるためにこのような際に成体がダメージを受けてしまうのだとか。


 生きるとはこんなに厳しいものなのか、と考えさせられてしまうが、先ほどの親子の話しに戻るとどうだろうか?お母さんは「環境」から身を守るために自身を端の安全な位置に座ることを無意識に選択したと考えられる。これは、ある意味において自己防衛本能と考えられる。この結果として子供を「危険」にさらしたわけで、未熟な個体を捨て成体を残すことで集団の再構築を期待する戦略を選択したのである。


 もちろん、ここにはドラスティックな環境変化も事故も存在しないが、友人の言葉から察すると精神的には厳しい外的環境から個人の精神状態を守ろうとする本能が働いているようだ。有胎盤類である人類は子供を大切に育てる種族として進化、繁栄してきた。しかし、お茶の間に流れてくるニュースに日々発生するおぞましく痛ましい事件などが多い。それらの根底には、もしかするともっと身近で単純なそれだからこそ根の深い、生物が新たに取得した器官としての新皮質の動作に寄り、したがって、我々ヒトはまだ理解し得ていない、問題が潜んでいるのではないだろうか。今日、私が見かけた日常の光景が単なる偶然であり、ここに書いたことが私の些細な勘違いと考え過ぎによるものであることを願う。


アイスルヒトヘ

僕たちは毎日いろいろなことに対して一喜一憂して生きている

僕は電話が嫌いで携帯電話も最近使い始めたばかり

でも、コンセプトが面白い

だって、空間を超えるための道具だから

君の友はそこにいなくても繋がってる

愛する人といつだって



ー ここからSFのお話 ー


 デジタル技術と生体との融合技術が確立され、脳研究が進んだ時代、脳波を直接発信、受信するシステムをインプラントし思考を直接共有できることにより、人類の新たな形態を模索していこうとする研究が開始された。

 このような場合、言葉を使う親の存在は邪魔となるためインプラントを施した新生児はロボットに託され月の隔離施設で育てられた。彼らは、しゃべらなくても意識を共有できた。我々にとっては超能力ともい言うべき思考のあり方を身につけていた。そんな彼らの最大の強みは、危機に直面したときに発揮された。全体の危機を克服するために誰かの犠牲が必要である時、余計な感情は与えられず極めて自然に決断がくだされた。そもそも、彼らには個の概念が無いのだ。個体は複数であるが全体で一つの意識を形成していた。だからこそ決断は極めて単純に冷静に行われ実行された。

 そして、新しい人類の躍進を目指した実験の悲しい現実と未来を憂慮する彼らの親である人類は彼らを抹殺することを議決した。


ーーー


 SF話をでっち上げてみたけど、思考を共有できるとしたらおそらくこのようになるでしょう。これは、多くの細胞からなる私たちの体で起こっていることと酷似している。また、これは組織の運営にも良く似ている。すなわち、このような判断は、組織を含めできるだけ多くを救い維持しようとする場合に必要であって、そのようなプロセスは冷淡に実行されていくのである。

 このような時、個の存在は意味を持つのかという当然の疑問が生まれる。個の存在意義は極めて小さなものである。しかし、そのような極めて小さな個の存在なくして、また、全体は成り立たない。その意味で個は極めて重要であったということである。これは、ある総体が生きるための手段としての真理である。それでは、我々が持つ感情はどのような意味を持つのか。愛する人を失う悲しみ、苦しみや怒り、恐れ。私たちは時に愛する人のためなら命すら投げ出し、愛するものを奪われた時、また、信頼を裏切られた時復習を誓ったりする。このような感情は、何の意味も持たないのか。

 SFの話ではそんな冷淡な判断が許されないように、現実の世の中においても許されるべきではない。これが現実とあきらめるのでなく、より良い未来のために世界を変えていこう。全体が個の集合であるということは、個の意識改革が全体を変革する鍵となる。これこそが「民主」主義ではないか。 

JUGEMテーマ:こころ

地球:人の数だけ玉手箱

頭の中にはいろんなものがつまっていて

いろんなときにでてくる

でも、取り出そうとしてもなかなかでてこない

とても不思議な玉手箱


お風呂に入ってリラックスして

一人だけの大事な時間

そんなときにいろいろと出てくる、どんどん

緊張するとなにも出てこない


決まったことをこなすだけなら

たたかれてもできる

たたいてたたいて、たたいてたたかれて懸命に働いて

生きるって大変だ


本当に大変なことかな?生きるって

そんなに大変なら僕らいないよね

本当は多分難しくないんだよ

たたかなくてもいいんだよ


たたいてもでてこないよ

気楽にいこうよ、いろんなものがでてくるよ

もっとたいせつにしようよ

せっかくの宝箱なのだから


つまんないね子どもも大人も

みんなたたいてたたかれて

当たり前のことってたくさんあるけど生きるために必要ないよね

ぼくらは何をすれば良いのかな?ひととしてね


人の数だけ大事な大事な玉手箱 


JUGEMテーマ:こころ
刹那の時間認識

 刹那は、仏教用語で指をはじく間に存在する時間で今の単位だと10ミリ秒くらい。単位としては10^-18だそうですごい単位まで考えていたんだな。


 仏教ではこの刹那の時間に意識が生成消滅するのだとか!?この根拠について私たち(の科学)は何も知らないしかし、単純にこの領域を想定していたことに驚かされる。また、仮に畏敬の念をもって、ここにある種の真実があるとすれば、我々の思考は何に依存しているのか?脳科学からは何もでないのか?ん〜悩ましい


 ところで、東京事変の閃光少女を聴くとなぜか泣けます。「わたしは、今しか知らないあなたにきらめきたい」切ないのですが、その理由が「刹那」的な考え方にあります。単に若者の考え方としての刹那主義だけでなく、例えば記憶障害を持つ人への愛ととらえることもできる。またさらには、「若者」の対象としての「年寄り」の生き方、あるいは、「人」の生き方、生き様、「生物」の生死、「生命」の存続...ものすごい深みを持っているように感じられて...なんだかとても切ないんです。一瞬とは何か?


 同じような感覚を持たされるのがニコラス・ケージのThe family man(天使のくれた時間)です(こちらは映画ですが)。この話のキーワードはglimpse(瞬き)です。瞬間を生きるって大事だね


 煩悩に悩まされる存在、それを認めることこそが重要と知る時解脱するのか?

 ん〜(ちなみに「宗教」には興味ないです)

 

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