じじ日報

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語学を学ばず自分を磨く

大学には、多くの語学関連科目があるし、他国の大学との間での協定に基づく語学留学制度まで用意されている。なかなか学生のために良い、と思ってきた。

 

しかし、よく考えてみると、本当に良いことなのかがよく分からない。そこまでして学生に語学教育をしようとするのはなぜか。なぜそこまでして我々が語学を学ばなければならないのか。グローバル化、コミュニケーション…。そもそも、言語は道具である、と私は思う。頭の中に構築した論理、判断基準、概念、情景、感情、思考、図形など、ありとあらゆる人類にはまだその本質が何であるのかすら分からない、何かを的確に表現し他者に伝えるために発明された道具である。言語学者、また、それを目指す者でもない限り、語学についていつまでも勉強しても「身につく」ことはないのではないだろうか。言語は道具である、その考えに基づけば、例えば仮に大工道具マニアがいるとしよう。彼は、様々な道具に興味があって収集している。しかし、彼はその道具で何かをしようとは考えていない。道具を持っていること、また、それを愛でることが好きなのだ。あるいは、単に物欲が深いこともあり得る。例えば英語教育は中学で始まり、大学生にもなるとかなりの教育を受けているということができる。最近では、さらに「その重要性」から小学校から教育を開始するとも聞く。私にすれば、そんなに道具を集めて何に使うのか?ということである。

 

道具は使うためにある。大工道具は家にかかわる何かを作るためにある。一般庶民とすれば、本棚かもしれないし、日曜大工でガレージを作る人もいるだろう。言語は、頭の中にあるものを他者に伝え、また、他者から聞き相互に理解をするためにある。要するに、コミュニケーションのための道具である。とにかく何かを作ろうとするときには、プロの仕上がりでなくとも味のある良いものができるものである。言語においても伝えたいことがあれば、道具が少なくても伝える努力があって最終的には伝わるものである。

 

そうすると、何を伝えたいのか?そのような伝いたい「ネタ」を持っているのかどうかの方が重要であるということになる。このネタは、なんであっても良い。最初はコミュニケーションに価するものであって、会話の対象となるものとの理解で始めることになるのだろう。挨拶や天気などのいわゆるスモールトークがまず思い浮かぶかもしれない。しかし、これをマスターしても、本当にあなたが伝えたいと思っていることは伝えられない。しかも、スモールトークの奥は深いとしても、一般的には語学を学んでいるようなエントリークラスとしてのスモールトークは定型句でしかなく、そんなものはいつでも身につけられそうだ。それでは、何なのか。やはり、自分が好きな事柄、趣味や食べ物や、宇宙ネタ、ダイビング、車、虫、旅行...なんでも良い。何か好きなものがあるだろう。他の人よりもちょっとくらいは造詣の深いものが、多分あると思う。そのよな事柄について、興味を持っている人もいることだろう。そうすると伝える内容がそこにあることになる。

 

それでも語学を学びたいという方は、何としてでも教師や同級生との会話を楽しんでほしい。それでなければ、語学を習っているのではなく趣味で知識を収集しているだけである。収集癖があるのか物欲からかである。そのような道具にこだわることなく、もっと自分を磨くのがよい。

 

 

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原子力10ミレニアム村
  2000年になった時、ミレニアムプロジェクトとかいうネーミングの学術予算がありましたね。ミレニアムは1000年単位の時代を数えるときに使う単位です。似たようなものにセンテニアルがあるけどこちらは日本ではほぼ聞きませんが100年の単位。

 ずっと前から疑問に思っていることがあります。原子力発電の話です。これは私だけではないはずです。私たちの生活は多くのエネルギー消費に依存していますから、使用することのできるエネルギーである電気を効率よく作ることが必要です。1000年前のことも分からないような人間が何を根拠にするのか地球が温暖化していると言い、しかも、それは人間の仕業であるという。そうであってもそうでなくてもそんなことは、日々の生活で対応する程度の問題なのですが、本当の問題は本当は目先のことしか分からない私たち人類が、適当な理由を付けて脱二酸化炭素と言うのものだから、あれほど反対の多い原子力発電が良い選択肢であるということになってきてしまったことであると思います。どのようにして処理をするのかの答えのないままに。どのように考えてもおかしいと思うのですが、どうしてまかり通るのか?他の候補を再考するのが得策なのは自明のはずです。

 5000年後に我々人類はどうしているでしょうか?歴史からすれば、現在の国々は無くなってしまっていることでしょう。当然、青森県も六ヶ所村も会社も何もかもありません。異なる国、組織、人々がそこにあるのでしょう。最悪でもそこで暮らす人々に情報を伝えることはできるのでしょうか。何とかする必要があります。石碑にでも刻んでおくなどの単純な取り組みを含めありとあらゆる可能性について考える必要があります。ところが、私たちは何も考えていないとしか言い様が無い状況にあります。今を生きることは大切ですが、それは未来を生きるための礎として大事なのです。

 ただ、この負の遺産で食べていくことはできるかもしれません。墓守をするだけなのですが10000年にわたり業務が保証されるわけです。 この考え方は、冠婚葬祭業が成立するのと同じ理由で成立するはずです。 どのような自治体より長く、おそらくは国の存在そのものよりも長い時間存在できるのです。何と安定した業務でしょう!”殺し文句”は、「私たちが面倒見なかったら出るよ」とでも言ってその都度の政府からの支援をお願いします。負の遺産すら食い物にでてしまいます。これは投げやりな思いつきですが、なんとかしなければいけないことは確かなことです。

 ミレニアムプロジェクトと銘打ったのであれば、これからの1000年間を見据えた骨太な研究、例えば、このようなエネルギー問題に対する本質的な取り組みに関する研究プロジェクトなどを推進すればそれなりに意義深いと思いますが、たまたま2000年の区切りであるからなどではあまりに薄っぺらである。

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電車の話し
 

「今日も山の向こうには行けないんだ...」

               ケーブルカーの心の声

これを見た人の頭の中には「線路は続くよ、どこまでも、野を越え、山超え、谷越えて...」って歌が鳴り響いているでしょう。ちょっと古すぎて分からないか。

鉄道ではそんなことあり得ないのにね。子供の目線だからしかたない。

ちなみに、鉄道におけるエネルギー効率が昨今注目されています。これは、単に大量輸送による効果ではなく、減速時に発電を行っているからですね。この認識は父が鉄道会社で働いていたので教えてもらって、随分前から、小学生の頃から知ってました。でも、行動範囲がレールによって限定されてしまいます。その点自動車はかなり自由度が高い。

また、鉄道を更に高速化するために浮上型のリニアモーターカーも検討されています。「夢の」リニアモーターカーの開発が進められていると始めて知った時は、「へ〜」と言った感じでしたね。この技術は、果たして進んでいるのか、あるいは、時代錯誤なのか?モーターは、N極とS極をシリンダー状に「閉じる」ことで、モーター内に「無限軌道」を作りました。だからさっきの「どこまでも行ける」というのはまんざら誤りではないのです。一方、リニアモーターカーは、鉄道と車両とでモーターが形成されますので、正に「線路が続く限り」の制約があります。

この意味で、リニアモーターより既存のモーターの方がある意味進んでいるわけです。ただし、摩擦抵抗による速度の限界という点ではモーターで車輪を駆動して軌道を走る方法は分が悪いのでしょう。

こう考えてみると、軌道を失った電気自動車はある意味「予定されない未来を切り開く乗り物」であるように思います。

さて、大江戸線が1991年に開通(一部)しました。これは、疑問でした。どうして浮上もしないのにリニア駆動なのか? 一両の列車を動かすために普通数個のモータを用意すれば良いだけなのに、あれではコストがかかりすぎる。何かと言えばコストが...と学問でも科学技術も文化すらコストで物事が左右されてしまうこのご時世になぜか?

この理由はアニメ(ミラクルトレイン)を見ていて分かりました。理由は地下鉄であることですね。穴を掘るコストとのバランスですか!気付きませんでした。ほんの少しトンネル径を小さくするだけでものすごく安くなる。このためには電車を小さくしなけりゃならないのだが、人が乗る空間を小さくできないのでボディーの上下の構造体を小さくする。

このためには、いくつかの案があったことでしょう。1)もちろんリニアモーターの採用、2)トルクの大きい小型の通常モーターの開発、3)モーターの設置位置の変更等。

しかし、コストが問題であれば、私ならまず(3)を行って、裏で(2)を行う。どうしようもなかったら(1)。

本当にコストかな?裏で「成功させなければならなかった」国家プロジェクトがあったんじゃないのかな?いいなあ、国営鉄道の巨大プロジェクトの行方は。僕のプロジェクトも「だめ」ではなくてなんとしてでも「成功」にしてくれればいいのに!ははは。けっ

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あわれな「ヨシキリ」と社会構造


 
カッコウは、托卵することで知られています。

 今日は、鳥の社会とヒトの社会の概念的な共通項について考えてみます。


 カッコウは例えばヨシキリの巣に卵を生み、自分では育てずヨシキリの親(以下、親ヨシキリ)を”だまし”て育ててもらいます。この過程で興味深いことがあります。一般的には、興味の対象は、どうして自分で育てないのか?その科学的根拠は何かということなのでしょう。ここでは、カッコウではなくヨシキリ側の挙動について考えてみましょう。


 カッコウの卵はヨシキリのそれよりも少し早くふ化します。これによりカッコウのひな(以下、子カッコウ)がヨシキリの卵やひな(以下、子ヨシキリ)をヨシキリの巣から蹴落とす準備ができます。実際、子カッコウが一生懸命子ヨシキリや卵を蹴落とす光景が観察されています。


 さて、このとき親ヨシキリに注目してみましょう。子カッコウは、姑息(考えは関与しないと思いますが)にも鬼(親ヨシキリ)の居ぬ間にこのような努力(プログラムされているのでしょう)をするのですが、たまたま子ヨシキリや卵が巣からはみ出ている状況で親ヨシキリが巣に戻ってきても全く無頓着です。ヨシキリはある領域内での事柄しか見えていないようです。確かに、子カッコウは(鳥類の共通認識としての)親心をくすぐるシグナル(大きな口とそれに見える羽の黄色の部分)を精一杯送っています。しかし、悲しいことに親ヨシキリは見える情報に翻弄され、本当に大事な子ヨシキリの悲しい末路には全く無関心となってしまいます。これを「ヨシキリシステム」と呼びましょう。


 ヒトの社会においては、昨今非雇用者数が増加しおそらくは社会への絶望による自殺者数も増加しています。この社会現象は、ヨシキリシステムと類似点があります。親ヨシキリとその巣からなる家庭のような単位が社会です。労働者はかわいそうな子ヨシキリです。子カッコウは経済悪化の象徴ととらえましょう。このようにとらえると、上の状況は次のようになります。


 経済状況の悪化や企業の業績悪化(子カッコウの猛威)により、労働者が社会構造から逸脱し始めます。しかし、社会は逸脱していく労働者を認知することがありません(無頓着)。(生物学的には認知はしていますが、社会構造として認知していないということです)社会は、「自分」が置かれた状況のみへの対処に精一杯注力し(翻弄され)て、本当に大切な労働者のいつ脱に対する対策を講じることがありません(無関心)。このとき、経済活動は人が作り上げたものですが、必ずしも操作できるものでもありませんので、社会はこのような猛威に対して抵抗するすべを持ちません。


 科学はカッコウの習性の動作原理を探ろうとしますが、問題はカッコウではなくヨシキリシステムであるという事に注目することが重要です。カッコウの習性は、ヨシキリシステムの中の要素としての現象です。科学においても、社会学においても、経済学においてもシステムの理解が足りないことに目を向ける必要があります。なんとか、新しい観点から問題のシステムを改善するための総合的理解に取り組んでいくことが必要です。


 ヨシキリはこのシステムを利用して、種として時間を生き抜くためにあえて個体を犠牲としているかもしれません。しかし、この場合のヨシキリの目的達成はシステムの崩壊を意味し、カッコウが種としての生命の危機に瀕することになります。種とは、これほど過酷な状況をくぐり抜けなければ生きられないものかもしれません。その後に、ヨシキリは強くたくましい種となり、カッコウはオナガを標的とするのかも知れません。


 類似性から推察すれば、人の社会も犠牲を払うことはシステムの必然なのでだろうか?単にこれを受け入れるわけにはいかないのは当然である。もちろん、この類似性が比較に値しない可能性もあり、まずはそれを願うばかりである。



どの蟻が優れてる?
小学生のときに蟻を観察したことがある人は多いと思います。
何匹かのかわいそうな蟻を土をいれた瓶に入れて観察します。

このときにはどの蟻も単に蟻です、よね。
誰か一郎とか花子とか名前で呼んでいた人いますか?
もし、そんな人がいたらかなり変ですよね。蟻人化!)
どうして「変」なのかというと、擬人化するための根拠に欠けるから。
擬人化する場合には自分の中の何かをそこに見いだすことができなければいけません。
少なくとも私にはそれができません。
だから、変と言っているわけです。
同じ理由からどの蟻が優れているとか劣っているとか考えません。

私たちは、生まれて死ぬまでいつも他人との比較の中で生きています。
でも、私たちは蟻の優劣を問題としない。
全く異なるレベルの知性体からすれば優劣は問題ではありません。
種族がどう生存するのか、それが問題です。
適材適所とはよく言ったものですね。
先の蟻などは特段考えるとも思えませんが作業分担していますね。

例えば、「蟻の社会」はヒトの体に例えることができそうです。
兵隊蟻は免疫機構、働き蟻は消化器官、女王蟻は生殖器官などでしょうか。
別の視点から観察すれば、それまで見えなかったものが見えそうです。
その中での役割があるのだから、優劣の問題ではないのだ、とも。

この「蟻の社会」を私たちの体に置き換えるとどうでしょう。
胃を構成している個々の細胞は「お前は劣っている」などと「思っている」でしょうか。

同じように、ヒトという種族も様々な形で組織を形成しています。
それらの組織の中で、個人は「特別な機能」を担っています。
特別な機能の担い手としての客観的な能力が問題であって、いわゆる偏差値社会における優劣は問題となりません。

常に優劣を気にしている私たちの何と薄っぺらなことでしょう。
できることを行う。
そこに優劣など存在しない。



注1:ヒトの作ったゲームの中では優劣を競うこともある。しかし、本来の種族としの性質ではないことに注意。

注2:類人猿には競争社会もあるようだが、この問題はある種の類人猿の特徴かもしれません。


美濃紙の費用対効果!?
 以前、何かの番組の中で和紙(美濃紙)を漉くときの話をしてました。私が興味があったのは簀桁(すけた)(巻き寿司を作る時の「まきす」みたいなやつが型にはまったもの)の竹ひごをつなぎ止めている糸(絹糸)の話です。


 美濃紙は丈夫で知られていますが、その理由が楮の細かな、しかし、長い繊維が縦横に複雑に絡み合っているからなのだとか。これを漉く時に使う道具の材料の一つが糸です。実は、紙漉作業は何度も何度も同じことを繰り返して均質な紙を漉いて行くのですが、このような行程に耐える強度を持つ絹糸を紡ぐことができるのが、日本でただ一人しかいないとのこと。


 若い夫婦が一念発起して伝統を継承して始めたのだそうですが、生計が立たず旦那さんが「定職」について奥さんが一人で、しかも、どこかの通路をかりて紡いでいると。泣ける話です。記憶では、建物の外観と美濃紙であると言うことから察するところ、美濃和紙の里会館でしょう。


 前置きが長くなってしまいました。私の言いたいことは、このような場合に費用対効果を語るべきでないのは当然なのですが、でもやはり経済主義の世の中で「個人の力」に頼らざるを得ないことを知り、これについて何とかしたいと思っても、やはり私たちはこの状況を容認せざるを得ないということ。結局「費用対効果」、「コスト」等々、つまらない経済主義の言葉で終始してしまって、頭では良しと思ったこととは裏腹な言い訳で納得してしまう。そんな自己矛盾を、社会を構成しているおそらくほぼ全ての人が抱えていると思います。


 このようなことを考えると、個人の集団が社会で、ここにはマジョリティーの論理が動作原理として働くものだと思っても、どうもそのようになっていないことに気がつきます。どういうことなのか?


 そう思って少し調べると費用対効果の使い方に問題があるように思います。費用対効果は「企業経営において、何にいかほど資金を投入したら、どれほど儲かるかを現状の結果から予測するときに使う用語」です。費用対効果に近い概念として「return on investment (ROI)」と言う英語があります。「見返り」を期待する意味において洋の東西を問わないということが分かります。ただし、英語の正々堂々としているのは、「広義には収益性を計ることだが、そこに特定の”正しい”計算法があるわけではない」としているところです。 


 例えば、「子どもにどれくらい投資したから、あの大学に行ってもらわなければ割に会わない」などと使うことは決してありませんよね!仮に「投資」という言葉を使うとすれば、教育の場合の「見返り」は、子どもの「知性」や「品位」、「人間性」の向上でしょう。英語のROIにおいて「特定の計算法が存在しない」といっている典型とも考えられます。計ることのできない見返りへの投資であったということです。 


 「科学研究」とは、限りなく「教育」にその概念的な性質が似ていると思います。


私は、経済主義の考えに従えば、取るに足らないが、崇高な人々に、また、そのような人々が行う事柄に対して、何らかの施しをしてあげたいと思います。まあ、思っているだけでなかなか行動できないんだけど。でも、もしかしたら、皆がそう思っていて、そんな皆の一部でも行動するとすれば、それで十分なのかもしれないとも思う。


 紙漉の話しが何の番組の一部かも定かでありませんが、たぶん西本願寺御影堂修復の際の絵の裏打ち剤としての紙の話だったと思います。


 一見、教育や科学研究の話しとは似ても似つかないと思われるかもしれませんが、「大切さ」を「お金」の単位で評価すること自体に問題があるという点で共通していると思います。


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マジョリティーの論理
 物事の裁をとる場合によくこの言葉を耳にします。一般的な議論の場合には良い手法でしょうが、構造的にマイノリティーが存在する場合には論理というにはおぼつかない稚拙な手法でしょう。このためしばしば憤慨することがあるのですが、最近面白いことを見つけました。


 エスカレータを使うとき右か左に寄って立ちますよね。誰が始めたのか分かりませんが、「急いでいる人に道を譲る」美しい。しかし、よく考えてみてください。その人はほんとうに急いでいたのか?混雑のない時に走っている人はおそらく急いでいますよね。こうした急を要する状況におかれた人がある割合でいるとすると、混雑しているときにも同じ割合で急いでいる人がいます。しかし、混んでいるときにの問題は、急いでいても先を急げない状況があることです。急いでいる人はイライラします。


 さて、マジョリティーの論理に従うとどうなるでしょうか?エスカレータでの「ルール」は鉄道の周辺から始まったように思いますが、鉄道は、公共交通機関で大量輸送を担う重要な都市機能構造の一つです。当然、マジョリティーの論理が優先されるべきものでしょう。ここで、混雑解消の条件は、より多くの利用者を一定時間内に移動させることです。


 エスカレータが20段/分のスピードで動作するとすると、一般的なエスカレータはステップあたり2名が乗れるので、 40人/分の能力がありますが一列に乗ると20人/分。しかし、1列が立止まり1列が相対速度が2倍で歩いている場合は、20+20x2=60名/分の能力があります。ですから1列に並ぶことが重要なわけです。 と、言いたいところですがここにはトリックがあります。移動レーンでは2倍のスピードでの移動を根拠にするのですが、人が歩くためには動作に必要な間隔が必要です。したがって、歩留まり20+20x2/2=40人/分。あれっ?元に戻った。 また、通勤ラッシュ時でないときは、エスカレータの手前だけに人だかりができます。この理由の一つは、一列に並ぼうとする人の数が多いためでしょう。歩く側に立ってしまうと長いエスカレータを最後まで歩かされるはめになりますから。この場合には、エスカレータの能力の1/2しか搬送できません。ラッシュ時にも比較的混雑していないときの心理が作用しますから、一見すると最大の能力を発揮しているようでも、高速レーンには隙間があるばずです。ということは、搬送力は40人/分と20人/分の間にあるということです。エスカレータ本来の能力を発揮できていない。全ての人が2列に立ち止まれば最大能力を発揮できる。だから、2列に整然と並ぶことを選ぶ。これが、マジョリティーの論理です。


 結果からすると、「マストランスポーテーションのシステムを考えるときにはマジョリティーの論理は適応されていない。」ことになります。 


 摩訶不思議也


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3/11町田で被災!?

ガソリンは入れられないし、食品はスーパーから無くなっちゃうし...

そんな中で、我が家は皆さんがすぐ平静を取り戻す事を期待して、大きな期待を寄せつつ、努力せず「あるもので何とかする」作戦を取ることにした。
だってそうでしょう、需要が供給に勝れば無くなっちゃう
このたびはそのきっかけが明確
被災者があまりに多く政府が全面的に生活を補助すると言ったことによって、「それじゃ、ここに来る食品が減っちゃう。私の食べ物が無くなっちゃう」ということを多くの人が考えたことだろう。それで、いつも以上に誰か買うと、そんな誰かがいればいるほど、急速に商品が無くなっていく。そうすると「そこまでひどく無いだろう」と思っていた人も「やばいっ」と。そんな悪循環。誰かがやめなくっちゃ
しかし、少し不安です。なぜかと言うと、次に入荷する商品は数日前に購入できなかった人たちが待ち構えていて買ってしまうので、我が家の分までは無い。だから、我が家はその次かそのまた次の入荷待ち。それまで食いつなぐことができるか?
無くなっちゃったら、近所の人にお願いして分けてもらおう!そんな時のための?お隣さん

夜 露 死 苦

社会 哲学

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