じじ日報

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町田野津田公園のばら

 町田は多摩丘陵の端のまだまだ自然の残る場所です。

 5月も中旬だが梅雨はまだ先、まだまだ新緑の感じが残る。気温は25度くらいで爽快。晴れ上がり野津田公園に行く。

 野津田公園は、町田市民がスポーツに散策に教育活動に合宿にと色々な行事が出来るようにと整備されたかなり広大な公園だ。娘が小さい頃ここで開催されたマラソン大会に参加した。

 バラが見頃を向かえているとの情報を得て見に行た。鎌倉街道から綾部原トンネルを抜け小野路の交差点を左に入り、野津田公園北を更に左、緑に囲まれた道を進むとほどなく入り口(北口)。ここから更に進み、競技場の手前に駐車場がある。

 ここから北西に雑木林の斜面の小道を登ると、「なんでこんなところに民家が?」と思う家があるが、これは合宿所のようで「小野路屋敷」とのこと。ここを通り抜け丘を下るとバラ園が見えてくる。

 この時期まだ1、2分咲き。しかし、咲き始めの開ききっていない花は美しい。何枚か写真を撮る。

 名前には関心が無いがものすごく甘く強烈に良いにおいのするバラも。2、3メートルの木もある。バラは乱雑なブッシュで、とげがあって、アブラムシがいっぱいで、草なんだか木なんだかわからない、あまり好きな花ではなかったが、よく見るとなかなかいい。

 周辺にはいろいろと見所はあるようなのでまたの機会に行ってみよう。ウグイスの声がずっと聞こえている。湿地にはカワセミが見られる場合もある!

 町田にはあちこちにほのぼのとしたスポットが点在していますので、ドライブがてらいかがですか

 町田良いとこ一度はおいで!

<趣味>


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Conglomerate
 

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kənɡlάmərət


「独立した複数の要素の固まり」を表す単語です。

ルー大柴(リンクしてあるサイトは面白いですよ!)風に言えば「Glomus(糸くずの塊)がtogetherしてる」でしょう。類義語にagglomerate(凝集塊)があります。これらの差は、構成要素の独立性でしょう。一般的には、科学にも経済学にも使うことができる単語です。


 さて、これがどうしてこれからの時事英語かというと、昨今「複合企業」と呼ばれる会社が多く存在しています。どこかに大きな資本があって、あまりにも多くの異種事業を展開する多角経営を行っていて、総体としていったい何をやっているのかやろうとしているのか分からない類の企業体です。私は、大変うさんくさいと思ってみていますが、誠実に経営されているようであれば申し訳ありません。このような企業体は一国内の組織でなくても良い訳で、多国籍複合企業もありです。


 問題は、要素としての企業が事業を行うことは目的が分かり易いのですが、そのような多くの相互の関係すら分からない企業の総体の目的は全く理解できません。これに対する恐怖心からかもしれませんが、「何か裏で糸を引く陰」を感じ、将来に不安を覚えます。

 例えば、町の不動産屋さんがあなたの隣の土地を買ったのであれば「ああそうか」で済むでしょうが、得体の知れないconglomerateが買ったとしたら、「これからいったい何がおこるのだろう」と不安にかられるでしょう。これから近い将来このようなことがあちこちで問題となるでしょう。

 このとき、そのような企業体は悪意を持っているわけではないかもしれません。しかし本質的な問題は、企業である以上利益が上がれば良い訳で、この場合には総体として利益が上がれば良く、要素企業体の目的とは裏腹の結果を招く可能性があること。決して彼らは嘘は言いませんが、ただ未来は分からないので結果として「皆さんの希望に添うことができなかった」ということも多々あると思います。私は、このような企業体は政府の監視下におくべきと考えます。特に、電気(発電)、上下水道、病院、通信などライフラインとして重要な部分や、土地や森林については資本主義を無視してでも守っていく必要があります。


 余談ですが、考え方としておもしろいものを見つけました。21世紀COEプログラムの一つで京大院文学研究科で行っていた「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」プログラムの一部であった中務哲郎先生の「文学と言語を通してみたグローバル化の歴史」のサイトの階層名がglomus。先生は、グローバリズムに飲み込まれていく固有文化を糸くずに例えたのか、あるいは、糸くずの集まったものとしてのグローバル社会を考えたのか不明ですが面白い命名です。...誰も気にはしてないだろうな..


仮想現実とポケモン
 
 最近子供向けのアニメが良くできていますが、これは大人が考えてSFファンタジーとして良くできているということで、そんなことはおかまい無しにアニメにはまり込む子供には注意が必要です。


 子供がポケモンのゲームを持っているので、使っていない時にこっそりとやって見たりして、当然、後でばれて怒られちゃう。...最初は意味不明だったのだが、これは面白い。これは子供が思っている面白さとは全然違うと思うが、ゲームの存在様式そのもの、というか概念が面白い。何を言っているかというと、ポケモンが消耗した時にポケモンセンターに行って回復させるのですが(医者にかかるような感じ)、ここにあるコンピュータ端末を使うとゲームの中でポケモンを交換することができるようになっている。そんなことしてどうなるの?と思ってしまうのだが、実はゲーム機に赤外線通信ポートがついていて本当の友達(その子もゲームの中でポケモンセンターで端末に向かっている)と向かい合ってゲーム経由で実際のゲーム機を操作して、現実の友達と交信しているのだ!面白い。普通はコンピュータの中にゲームがあるので、何かをする時にはゲームから出て、コンピュータで何かするのだが、ゲームの中にコンピュータがあって、それを操作するようになっている。実空間と仮想空間をあのゲーム機とポケモンというゲームでつなげている。


 というわけで、ゲームではなくてコンセプトが面白い。


 でも、実は本当は怖いことなのではないだろうか。このようなすばらしいゲームが無かった時代に子供であった私たち大人は、ああ面白いことしてるんだな、ですむのだが、子供にしてみれば、現実と仮想現実が自然に繋がっていて境目が分からない。


 ポケモンに限らず、最近のSFファンタジー物のアニメは多くが現実と非現実や仮想現実を行ったり来たりする仕組みで非常に面白い。鍵になっていることは「成長」であり、言ってみれば現実逃避から立ち直るというクラッシックな設定だ。これが分かれば良いと思うが、面白いストーリーがかぶせられていて本質が見えにくい。


 大丈夫かな?


 子供のためにもう少しメッセージの単純明快なものを作ってほしいな


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美しい形とは?




 少し前、ふと庭の片隅に目をやるとスズランが咲いていました。あまりうまく写真が撮れたので感動しました。それにしても誰が創ったのか美しい。葉のすっとした線も良い。

 タンパク質の立体構造を見ているときにも同じことを思う。ある種の加水分解酵素や結合タンパクは、全体のまとまり方が美しい!でも、いろいろと見ていくと不細工なタンパクもある。

 完全な思い込みかもしれないが、例えば、転移酵素の類を例に変わった比較をしてみよう。リン酸化酵素(たくさんあるけど)と糖転移酵素を比べてみる。両者共に2つの基質を結合する部分と蝶番構造がある。前者はそれなりに美しく後者は醜い(と思う)。これはヒトである私の主観だが、おそらくヒトであるあなたも同感してくれるだろう。この差は何か?

 リン酸化酵素の基質の一つはアデノシン三リン酸で、糖転移酵素では糖ヌクレオチド。リン酸基を2つ結合した核酸部分は基本的に同じで転移される三番目の要素がリン酸か糖かの違いととれる。

 リン酸化は、生命の根幹に関わっていて分子の進化上でも古いと思われますが、糖鎖によるタンパク質や脂質の修飾はもう少し(だいぶ)後発であるだろう。この理由の一つは、糖鎖の付与ではアデノシンがほぼ使われていないこと。(この範疇に入らないのは、デンプンの合成。これだけはADPグルコースを基質に使います。)アデノシンに結合するタンパクがたくさん進化したので別の類のタンパクが選ばれた、あるいは、細胞内でのアデノシン量が枯渇傾向となり他の塩基が使われたなどの理由が考えられます。RNAで使われている塩基の内、ウリジン、シチジン、グアノシンが色々な糖の転移に使われている。DNAに見られるチミジンは糖転移に普通は使われていなませんが、最近になってラムノースの転移に使われていることが分かっています。TMPはUMPからチミジル酸合成酵素によって合成されますから分子進化的には随分新しいということになります。このような分子の進化にはそれを合成する酵素分子の進化が必要です。生物の進化と分子の進化を関連づけて考えると、なんだかややこしいけどちょっと面白いと思います。

 さて、話を戻すと、リン酸化酵素はまあまあ美しいが、糖転移酵素はそうではない。この理由は、時間ではないでしょうか?時間(変化速度に依存しますが)をかけて磨きこまれた分子の形は美しいということのような気がします。選び抜かれた形とも言うべきでしょうか。醜い分子も今後時間をかけて磨かれていく。生き残ればの話ですが。

 はたして何か別のものが私たちヒトを見たとき美しいと思うのだろうか?個体差の話ではないですよ、念のため。ヒトの後継生物は、仮に何千万年、何億年の年月をヒトの種が生き抜けるとすると、さらに美しいのだろうか?

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共生のすすめ
 
Colors


家にサルスベリの木があって夏の深緑に色を添えている

実は昔からサルスベリの花の色があまり好きではなく、今の家を購入した時に既にそこにあったサルスベリが最初の「不安材料」だったりした。しかし、1年が経って花の時期になるとなんととてもきれいな色の花をつけた。色は、一般的には透けるようなピンクなのだが、家の花は、しっかりとした黄味の差したピンク。花びら1枚一枚はもちろん淡い色です。パントンカラーで言えば「198CVC」ですが、これが折り重なると「199CVC」、RGBならば「255r 55g 100b」と濃くなっていく。この色が大変気に入っています。気になってしばらく周囲を観察してみましたが、そのような花をつけるサルスベリはありませんでした。この過程で、サルスベリはいろいろな色の花をつけることを知りました。嫌いだからと目をつむっていたわけですね。

最近、職場に「同じ色」のサルスベリを見つけました。ちょっと幸せです。










以前、友人と酒を飲んでいた時、何かの話題から「色」の議論になったことがあります。友人が言うには、私が見ている色と彼が見ている色は異なっているかもしれない、とのことでした。まあ、証明する手段が無いので、そういってしまえばそれで良いのですが、「同じもの」を認識しているのであれば、少なくとも同じものについての最低限の共通認識は出来ているので、... まあいいや。ちょっとめんどくさいね。そんなこともあって、好きな色を印刷業者が使うパントンカラーやコンピュータのモニター等での色表現で一般的なRGBで書いてみました。ただ、具体的にそのように指定しても、確かに私が好きなこの色と、皆さんが認識したその色は「異なる」のかもしれません。ですから、「私はこの色のサルスベリが好きです」と、いうように単に感覚的に表現するのが良いのでしょうね。仮に「どこが違うの?」と聞かれた時には、「ああ、この人はあまり色のことを気にしない人なのだ」とか、「もしかすると、友人の言うように人の色認識は個別に異なるのかもしれない」などと、思っていれば良いのかな。


色については、感覚的な部分もあるし科学的には光受容機構において光から化学エネルギーへの変換効率等によって、もしかしたら個人レベルで色の認識が異なっているのかも知れないと思います。でも、私が見ているこの世の中は、このサルスベリは、この物は、「同一」であると自信を持って言っても良いのかな?哲学者や研究者以外は、「そんなことはどうでも良いこと」と一蹴する方が健全ですね。身の回りには、もっともっと大切なことがたくさんあるのだから。


研究成果報告書:生物進化

 年度末になると報告書を作成し提出する。毎年繰り返すこの作業の意味はいったいなんなのか?


 自分で行っている研究などについて自己評価を行うことは容易でもあり困難でもある。容易である根拠は、環境因子との位置関係を把握した上で研究をセットアップし主体的にこれを遂行するわけであるから、内容についての正確な記述が可能であることによる。しかし、客観性についてははなはだ疑問である。単に客観的な位置付けはどうかと問われれば、誰もがそこに少なからず疑問を抱くことだろう。「おこなってきた研究の費用対効果はどうであったか?」などという問いを投げかけられても答えるすべを持ち合わせていない。「この戦争は正しかったのか」との問いに通じる。基礎研究とはそのような曖昧な自信と未来への希望に支えられた科学的興味心を満たす行為でしかないのではないだろうか。


 ただ、「私がおこなっていることは意味があるのか」と問われれば、私のみならず「全ての人々がおこなっていることには意味がある」と答えるだろう。己を否定することはできない。こうした利己的な個々人に対して自己評価を求めること自体が、そのような評価を行おうとし、また、そうすることで自己の高評価を得ようとする利己的な活動に寄っていると思われる。そう考えると、やはり、報告書は単なる業務報告書であって淡々とこなしておけば良いものとして、利己的に記述すれば良いのだということになる。証拠を提出するのであれば、「発表」等のみを成果報告書としてまとめれば極めて客観的と思われる。もし、論文としてまとまっていない部分について考慮してほしい進行中の「成果」がある場合にのみ長々とした報告(言い訳)をする。とはいえ、一般的に証拠となる論文等の成果としてまとまるには数ヶ月から数年を要するので、実際には毎年の報告書は細かな「言い訳」に終始するわけである。


 しかし、問題は省庁の予算においても同様であるが、お金を投入したらその年度末の成果を期待されることがしばしばであることである。リストが薄ければ運営上やプログラム設定上の問題があるのだということになる。誰もがそうではなく、評価する省庁側に存在する矛盾によっている事は知っている。


 社会的なインパクトを問われてもこれは、歴史的判断に極めて近いものであって推進した本人の思惑とはおよそかけ離れているものだろう。科学であれ経済であれ人類の欲望であれ、どれをとっても我々が簡単には知り得ない混沌とした深遠さを含んでいる。だから、個々人は真のゴールを知ることなくそれでも生きるために日々努力する。ただし、おこなっていることが正しいかといえばやはり答えることはできないはずである。ましてや、そこにどのような意義があってその行為に社会的インパクトがあるのかと問われても答えることは到底不可能である。さて、「成果報告書で私たちは何を求められているのだろう?」と、最初の問いに戻ってみてもやはりそこに答えは無い。


 このような研究に関する問答そのものは、生物の進化に共通する。個々の生物は、時代時代に何をどのようにするとかしないとかの意思決定を持っていない。それでも後代になってその「意義」を理解できるような歴史として遺伝子にその過程を組み込んでいる。淘汰されてしまった生物やこれを構成した個体の「努力」があってはじめて、そのような努力のうちの一つの成功があり得たわけである。そこには、善し悪しも無ければ費用対効果もない。ただ、「利己的」に個々が「努力」を積み重ねるのみである。


 さあ、がんばろう

 



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連続と不連続の狭間

 空間は連続しているが私たちが景色を見る時この連続性を感覚として認識することはまずない。


 このとき、木々や家々は独立したオブジェクトとしてそこに存在し、私たちはこれらそれぞれを認識し、また、それら位置関係をパターンとして認識している(と考えられる)。


 それでは、このような風景を写真や絵として切り取ったらどうなるのか?切り取られた絵には深度の情報が失われており全てが2次元の紙の上に並んでいる。多くの場合、ここに芸術性を見出すことは難しいのではないだろうか?もちろん、写真家が切り取る風景はすばらしい。しかし、明らかに元々の風景とは異なる。私たちは、これらを見て芸術であると判断するのだが、そこに、また、画家の描く絵に何を見ているのだろうか?


 2次元となった風景において、私たちは、3次元の空間では認識も曖昧であった連続性を見出しているのではないだろうか?写真でも絵画でも色彩やコントラストの関係に目をひかれる。もちろん時に題材そのものが政治的に、社会的に意味を持つ場合もあるが、それだけでは芸術とならない。


 そのような2次元のカンバスに展開される関係が連続性ではないだろうか?良い例として、ゴッホのタッチを挙げることができる。独特のうねるような描き方をしている。彼の絵の中では、空も太陽も木々も家々や人もすべてこの「うねり」の連続した世界に納められている。


 もちろんこの「うねり」は一般的には、不安や高揚などの精神面の表現であると言われている。しかし、このゴッホの描いた「うねり」は、潜在意識下の空間連続性を絵として再構成した表現ではないだろうか。また、このうねりによって絵には躍動感と生命力が与えられている。


 芸術家は、異なる次元の間や連続と不連続の間の概念的な関係を感じているのではないだろうか。


ヒトのカテゴリー:らくだ系



 通勤電車ではほぼ毎日かなりイライラしてます。

 うさ晴らしにそんな憂うべき人々をカテゴライズして笑い飛ばしています。ときどき


 今日は、らくだ系です。


 らくだは...なんだか良くわからない...というのが誰もが感じる印象と思います。目を見るとちょっとかわいいけど、砂漠で生きるためにまつげが長くてよく見えない。だから、表情が読めない。動物園では、なんだか知らないが寄ってきて食べ物をほしがっているのかと思えば、つばはいて「涼しい顔」をして去って行く。動物の行動学?に詳しい人ならこんな事は簡単に説明してくれるのだろう。しかし、ここではそんならくだから受ける変な威圧感と何考えてるのか分からない事への不安や不信感に注目です。


 通勤電車に乗っていてそんなに混んでいないのだが、そこそこ混んでる事ってよくあるね。それは、まったく不愉快でないのだが、どういうわけか一気に不快になる事がしばしばある。


 前のおっさんと後ろのおっさんがお尻を向けて迫ってくる。電車が加速、減速したり揺れたりするたびに5センチくらいずつ。そうして局所的な満員電車となる。これはホモの痴漢ではありません。ああ、私はおじさんですので


 「何じゃこりゃ〜?」と思って確認すると、新聞や本を読んだりゲームをしてるんですね、このような人たちは。広いスペースを確保したいがために少しずつ気付かれないように後ずさり。あ〜不愉快。その結果の局所混雑だ。


 いつもイライラして押し返したり、咳払いしてみたり、移動してみたりしていたが、「撃退法」を見つけたので報告します。奴らが「しかけてくる」のだから、そんな奴らどうしで「戦わせて」おけば良い訳です。通勤鞄にはノートパソコンが入っていて、縦方向は強度十分!というわけで、奴らの戦法に従って電車が揺れるたびに鞄を奴らにつっかい棒のようにします。すると、私はノートパソコンのスペースが確保でき、かつ、前後のらくだ君達はそれぞれが押し合っていて、「お〜とっと」って二人だけでヨロケている状態。


 「や〜い!」


 何考えてんだか分からないが、多分自分ではそれなりに自分のことを考えていて、それが傍にどう思われようと、迷惑になろうとそんな事までは考えていない。ただ、そこにある欲望を追いかける。


 あ〜らくだの様。当然うつむき加減の目線は、まさにらくだ!


 電車で読書といえば聞こえは良いが、本を読んでいる人の多くが、こんな姑息なことをしています!!!なんだかな〜。もちろんその様ではない人も多くいます。そのような人にはごめんなさい。明日もらくだ君達から護身しなければ...


 ちっちゃい!


手で水鉄砲で心臓が疲れるシミュレーション


風呂にはいってぼお〜〜〜〜〜っとしていた。

昔、父や弟やと、また、自分が父となった時子供と風呂で水鉄砲をして遊んだ。


いろんなやり方があるだろうが、

一番たくさん水を飛ばせるのが、

両手を握手するように握って親指の脇にできる隙間から水を飛ばすやり方。


で、これで遊んでみた!?

風呂に桶を浮かべて、

これに向かって一生懸命に水鉄砲!

一杯になるまでずっとひたすら続ける!

グオ〜

疲れたあ〜


桶はだいたい3リットルくらいの容量だから...

私の体をめぐる血液の量より少し少ないくらい。

これを一杯にしたということは、

その間に私の体の中でも同じ程度の血液が全身をまわっていることになる。


心臓の大きさは拳くらいというので、まあ両手だからちょっとインチキだけど。

それでも、桶がいっぱいになった時には両手の親指と人差し指の付け根がとても疲れている。

明日は筋肉痛かな


この調子で心臓は生まれてから生きている間ずっと働いているんだね。

自分の体ながらあっぱれだ!


いたわるって言ったって心労が少ない環境で働くくらいしかできないだろうが、

というのは大きなショックを受けると不整脈(同期不全による)が私はおこるので、

心臓さんくらいがんばってみようかなって少しだけ思う。


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