じじ日報

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連続と不連続の狭間

 空間は連続しているが私たちが景色を見る時この連続性を感覚として認識することはまずない。


 このとき、木々や家々は独立したオブジェクトとしてそこに存在し、私たちはこれらそれぞれを認識し、また、それら位置関係をパターンとして認識している(と考えられる)。


 それでは、このような風景を写真や絵として切り取ったらどうなるのか?切り取られた絵には深度の情報が失われており全てが2次元の紙の上に並んでいる。多くの場合、ここに芸術性を見出すことは難しいのではないだろうか?もちろん、写真家が切り取る風景はすばらしい。しかし、明らかに元々の風景とは異なる。私たちは、これらを見て芸術であると判断するのだが、そこに、また、画家の描く絵に何を見ているのだろうか?


 2次元となった風景において、私たちは、3次元の空間では認識も曖昧であった連続性を見出しているのではないだろうか?写真でも絵画でも色彩やコントラストの関係に目をひかれる。もちろん時に題材そのものが政治的に、社会的に意味を持つ場合もあるが、それだけでは芸術とならない。


 そのような2次元のカンバスに展開される関係が連続性ではないだろうか?良い例として、ゴッホのタッチを挙げることができる。独特のうねるような描き方をしている。彼の絵の中では、空も太陽も木々も家々や人もすべてこの「うねり」の連続した世界に納められている。


 もちろんこの「うねり」は一般的には、不安や高揚などの精神面の表現であると言われている。しかし、このゴッホの描いた「うねり」は、潜在意識下の空間連続性を絵として再構成した表現ではないだろうか。また、このうねりによって絵には躍動感と生命力が与えられている。


 芸術家は、異なる次元の間や連続と不連続の間の概念的な関係を感じているのではないだろうか。


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