じじ日報

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研究成果報告書:生物進化

 年度末になると報告書を作成し提出する。毎年繰り返すこの作業の意味はいったいなんなのか?


 自分で行っている研究などについて自己評価を行うことは容易でもあり困難でもある。容易である根拠は、環境因子との位置関係を把握した上で研究をセットアップし主体的にこれを遂行するわけであるから、内容についての正確な記述が可能であることによる。しかし、客観性についてははなはだ疑問である。単に客観的な位置付けはどうかと問われれば、誰もがそこに少なからず疑問を抱くことだろう。「おこなってきた研究の費用対効果はどうであったか?」などという問いを投げかけられても答えるすべを持ち合わせていない。「この戦争は正しかったのか」との問いに通じる。基礎研究とはそのような曖昧な自信と未来への希望に支えられた科学的興味心を満たす行為でしかないのではないだろうか。


 ただ、「私がおこなっていることは意味があるのか」と問われれば、私のみならず「全ての人々がおこなっていることには意味がある」と答えるだろう。己を否定することはできない。こうした利己的な個々人に対して自己評価を求めること自体が、そのような評価を行おうとし、また、そうすることで自己の高評価を得ようとする利己的な活動に寄っていると思われる。そう考えると、やはり、報告書は単なる業務報告書であって淡々とこなしておけば良いものとして、利己的に記述すれば良いのだということになる。証拠を提出するのであれば、「発表」等のみを成果報告書としてまとめれば極めて客観的と思われる。もし、論文としてまとまっていない部分について考慮してほしい進行中の「成果」がある場合にのみ長々とした報告(言い訳)をする。とはいえ、一般的に証拠となる論文等の成果としてまとまるには数ヶ月から数年を要するので、実際には毎年の報告書は細かな「言い訳」に終始するわけである。


 しかし、問題は省庁の予算においても同様であるが、お金を投入したらその年度末の成果を期待されることがしばしばであることである。リストが薄ければ運営上やプログラム設定上の問題があるのだということになる。誰もがそうではなく、評価する省庁側に存在する矛盾によっている事は知っている。


 社会的なインパクトを問われてもこれは、歴史的判断に極めて近いものであって推進した本人の思惑とはおよそかけ離れているものだろう。科学であれ経済であれ人類の欲望であれ、どれをとっても我々が簡単には知り得ない混沌とした深遠さを含んでいる。だから、個々人は真のゴールを知ることなくそれでも生きるために日々努力する。ただし、おこなっていることが正しいかといえばやはり答えることはできないはずである。ましてや、そこにどのような意義があってその行為に社会的インパクトがあるのかと問われても答えることは到底不可能である。さて、「成果報告書で私たちは何を求められているのだろう?」と、最初の問いに戻ってみてもやはりそこに答えは無い。


 このような研究に関する問答そのものは、生物の進化に共通する。個々の生物は、時代時代に何をどのようにするとかしないとかの意思決定を持っていない。それでも後代になってその「意義」を理解できるような歴史として遺伝子にその過程を組み込んでいる。淘汰されてしまった生物やこれを構成した個体の「努力」があってはじめて、そのような努力のうちの一つの成功があり得たわけである。そこには、善し悪しも無ければ費用対効果もない。ただ、「利己的」に個々が「努力」を積み重ねるのみである。


 さあ、がんばろう

 



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