じじ日報

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美しい形とは?




 少し前、ふと庭の片隅に目をやるとスズランが咲いていました。あまりうまく写真が撮れたので感動しました。それにしても誰が創ったのか美しい。葉のすっとした線も良い。

 タンパク質の立体構造を見ているときにも同じことを思う。ある種の加水分解酵素や結合タンパクは、全体のまとまり方が美しい!でも、いろいろと見ていくと不細工なタンパクもある。

 完全な思い込みかもしれないが、例えば、転移酵素の類を例に変わった比較をしてみよう。リン酸化酵素(たくさんあるけど)と糖転移酵素を比べてみる。両者共に2つの基質を結合する部分と蝶番構造がある。前者はそれなりに美しく後者は醜い(と思う)。これはヒトである私の主観だが、おそらくヒトであるあなたも同感してくれるだろう。この差は何か?

 リン酸化酵素の基質の一つはアデノシン三リン酸で、糖転移酵素では糖ヌクレオチド。リン酸基を2つ結合した核酸部分は基本的に同じで転移される三番目の要素がリン酸か糖かの違いととれる。

 リン酸化は、生命の根幹に関わっていて分子の進化上でも古いと思われますが、糖鎖によるタンパク質や脂質の修飾はもう少し(だいぶ)後発であるだろう。この理由の一つは、糖鎖の付与ではアデノシンがほぼ使われていないこと。(この範疇に入らないのは、デンプンの合成。これだけはADPグルコースを基質に使います。)アデノシンに結合するタンパクがたくさん進化したので別の類のタンパクが選ばれた、あるいは、細胞内でのアデノシン量が枯渇傾向となり他の塩基が使われたなどの理由が考えられます。RNAで使われている塩基の内、ウリジン、シチジン、グアノシンが色々な糖の転移に使われている。DNAに見られるチミジンは糖転移に普通は使われていなませんが、最近になってラムノースの転移に使われていることが分かっています。TMPはUMPからチミジル酸合成酵素によって合成されますから分子進化的には随分新しいということになります。このような分子の進化にはそれを合成する酵素分子の進化が必要です。生物の進化と分子の進化を関連づけて考えると、なんだかややこしいけどちょっと面白いと思います。

 さて、話を戻すと、リン酸化酵素はまあまあ美しいが、糖転移酵素はそうではない。この理由は、時間ではないでしょうか?時間(変化速度に依存しますが)をかけて磨きこまれた分子の形は美しいということのような気がします。選び抜かれた形とも言うべきでしょうか。醜い分子も今後時間をかけて磨かれていく。生き残ればの話ですが。

 はたして何か別のものが私たちヒトを見たとき美しいと思うのだろうか?個体差の話ではないですよ、念のため。ヒトの後継生物は、仮に何千万年、何億年の年月をヒトの種が生き抜けるとすると、さらに美しいのだろうか?

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原子力10ミレニアム村
  2000年になった時、ミレニアムプロジェクトとかいうネーミングの学術予算がありましたね。ミレニアムは1000年単位の時代を数えるときに使う単位です。似たようなものにセンテニアルがあるけどこちらは日本ではほぼ聞きませんが100年の単位。

 ずっと前から疑問に思っていることがあります。原子力発電の話です。これは私だけではないはずです。私たちの生活は多くのエネルギー消費に依存していますから、使用することのできるエネルギーである電気を効率よく作ることが必要です。1000年前のことも分からないような人間が何を根拠にするのか地球が温暖化していると言い、しかも、それは人間の仕業であるという。そうであってもそうでなくてもそんなことは、日々の生活で対応する程度の問題なのですが、本当の問題は本当は目先のことしか分からない私たち人類が、適当な理由を付けて脱二酸化炭素と言うのものだから、あれほど反対の多い原子力発電が良い選択肢であるということになってきてしまったことであると思います。どのようにして処理をするのかの答えのないままに。どのように考えてもおかしいと思うのですが、どうしてまかり通るのか?他の候補を再考するのが得策なのは自明のはずです。

 5000年後に我々人類はどうしているでしょうか?歴史からすれば、現在の国々は無くなってしまっていることでしょう。当然、青森県も六ヶ所村も会社も何もかもありません。異なる国、組織、人々がそこにあるのでしょう。最悪でもそこで暮らす人々に情報を伝えることはできるのでしょうか。何とかする必要があります。石碑にでも刻んでおくなどの単純な取り組みを含めありとあらゆる可能性について考える必要があります。ところが、私たちは何も考えていないとしか言い様が無い状況にあります。今を生きることは大切ですが、それは未来を生きるための礎として大事なのです。

 ただ、この負の遺産で食べていくことはできるかもしれません。墓守をするだけなのですが10000年にわたり業務が保証されるわけです。 この考え方は、冠婚葬祭業が成立するのと同じ理由で成立するはずです。 どのような自治体より長く、おそらくは国の存在そのものよりも長い時間存在できるのです。何と安定した業務でしょう!”殺し文句”は、「私たちが面倒見なかったら出るよ」とでも言ってその都度の政府からの支援をお願いします。負の遺産すら食い物にでてしまいます。これは投げやりな思いつきですが、なんとかしなければいけないことは確かなことです。

 ミレニアムプロジェクトと銘打ったのであれば、これからの1000年間を見据えた骨太な研究、例えば、このようなエネルギー問題に対する本質的な取り組みに関する研究プロジェクトなどを推進すればそれなりに意義深いと思いますが、たまたま2000年の区切りであるからなどではあまりに薄っぺらである。

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共生のすすめ
 
電車の話し
 

「今日も山の向こうには行けないんだ...」

               ケーブルカーの心の声

これを見た人の頭の中には「線路は続くよ、どこまでも、野を越え、山超え、谷越えて...」って歌が鳴り響いているでしょう。ちょっと古すぎて分からないか。

鉄道ではそんなことあり得ないのにね。子供の目線だからしかたない。

ちなみに、鉄道におけるエネルギー効率が昨今注目されています。これは、単に大量輸送による効果ではなく、減速時に発電を行っているからですね。この認識は父が鉄道会社で働いていたので教えてもらって、随分前から、小学生の頃から知ってました。でも、行動範囲がレールによって限定されてしまいます。その点自動車はかなり自由度が高い。

また、鉄道を更に高速化するために浮上型のリニアモーターカーも検討されています。「夢の」リニアモーターカーの開発が進められていると始めて知った時は、「へ〜」と言った感じでしたね。この技術は、果たして進んでいるのか、あるいは、時代錯誤なのか?モーターは、N極とS極をシリンダー状に「閉じる」ことで、モーター内に「無限軌道」を作りました。だからさっきの「どこまでも行ける」というのはまんざら誤りではないのです。一方、リニアモーターカーは、鉄道と車両とでモーターが形成されますので、正に「線路が続く限り」の制約があります。

この意味で、リニアモーターより既存のモーターの方がある意味進んでいるわけです。ただし、摩擦抵抗による速度の限界という点ではモーターで車輪を駆動して軌道を走る方法は分が悪いのでしょう。

こう考えてみると、軌道を失った電気自動車はある意味「予定されない未来を切り開く乗り物」であるように思います。

さて、大江戸線が1991年に開通(一部)しました。これは、疑問でした。どうして浮上もしないのにリニア駆動なのか? 一両の列車を動かすために普通数個のモータを用意すれば良いだけなのに、あれではコストがかかりすぎる。何かと言えばコストが...と学問でも科学技術も文化すらコストで物事が左右されてしまうこのご時世になぜか?

この理由はアニメ(ミラクルトレイン)を見ていて分かりました。理由は地下鉄であることですね。穴を掘るコストとのバランスですか!気付きませんでした。ほんの少しトンネル径を小さくするだけでものすごく安くなる。このためには電車を小さくしなけりゃならないのだが、人が乗る空間を小さくできないのでボディーの上下の構造体を小さくする。

このためには、いくつかの案があったことでしょう。1)もちろんリニアモーターの採用、2)トルクの大きい小型の通常モーターの開発、3)モーターの設置位置の変更等。

しかし、コストが問題であれば、私ならまず(3)を行って、裏で(2)を行う。どうしようもなかったら(1)。

本当にコストかな?裏で「成功させなければならなかった」国家プロジェクトがあったんじゃないのかな?いいなあ、国営鉄道の巨大プロジェクトの行方は。僕のプロジェクトも「だめ」ではなくてなんとしてでも「成功」にしてくれればいいのに!ははは。けっ

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Colors


家にサルスベリの木があって夏の深緑に色を添えている

実は昔からサルスベリの花の色があまり好きではなく、今の家を購入した時に既にそこにあったサルスベリが最初の「不安材料」だったりした。しかし、1年が経って花の時期になるとなんととてもきれいな色の花をつけた。色は、一般的には透けるようなピンクなのだが、家の花は、しっかりとした黄味の差したピンク。花びら1枚一枚はもちろん淡い色です。パントンカラーで言えば「198CVC」ですが、これが折り重なると「199CVC」、RGBならば「255r 55g 100b」と濃くなっていく。この色が大変気に入っています。気になってしばらく周囲を観察してみましたが、そのような花をつけるサルスベリはありませんでした。この過程で、サルスベリはいろいろな色の花をつけることを知りました。嫌いだからと目をつむっていたわけですね。

最近、職場に「同じ色」のサルスベリを見つけました。ちょっと幸せです。










以前、友人と酒を飲んでいた時、何かの話題から「色」の議論になったことがあります。友人が言うには、私が見ている色と彼が見ている色は異なっているかもしれない、とのことでした。まあ、証明する手段が無いので、そういってしまえばそれで良いのですが、「同じもの」を認識しているのであれば、少なくとも同じものについての最低限の共通認識は出来ているので、... まあいいや。ちょっとめんどくさいね。そんなこともあって、好きな色を印刷業者が使うパントンカラーやコンピュータのモニター等での色表現で一般的なRGBで書いてみました。ただ、具体的にそのように指定しても、確かに私が好きなこの色と、皆さんが認識したその色は「異なる」のかもしれません。ですから、「私はこの色のサルスベリが好きです」と、いうように単に感覚的に表現するのが良いのでしょうね。仮に「どこが違うの?」と聞かれた時には、「ああ、この人はあまり色のことを気にしない人なのだ」とか、「もしかすると、友人の言うように人の色認識は個別に異なるのかもしれない」などと、思っていれば良いのかな。


色については、感覚的な部分もあるし科学的には光受容機構において光から化学エネルギーへの変換効率等によって、もしかしたら個人レベルで色の認識が異なっているのかも知れないと思います。でも、私が見ているこの世の中は、このサルスベリは、この物は、「同一」であると自信を持って言っても良いのかな?哲学者や研究者以外は、「そんなことはどうでも良いこと」と一蹴する方が健全ですね。身の回りには、もっともっと大切なことがたくさんあるのだから。


あわれな「ヨシキリ」と社会構造


 
カッコウは、托卵することで知られています。

 今日は、鳥の社会とヒトの社会の概念的な共通項について考えてみます。


 カッコウは例えばヨシキリの巣に卵を生み、自分では育てずヨシキリの親(以下、親ヨシキリ)を”だまし”て育ててもらいます。この過程で興味深いことがあります。一般的には、興味の対象は、どうして自分で育てないのか?その科学的根拠は何かということなのでしょう。ここでは、カッコウではなくヨシキリ側の挙動について考えてみましょう。


 カッコウの卵はヨシキリのそれよりも少し早くふ化します。これによりカッコウのひな(以下、子カッコウ)がヨシキリの卵やひな(以下、子ヨシキリ)をヨシキリの巣から蹴落とす準備ができます。実際、子カッコウが一生懸命子ヨシキリや卵を蹴落とす光景が観察されています。


 さて、このとき親ヨシキリに注目してみましょう。子カッコウは、姑息(考えは関与しないと思いますが)にも鬼(親ヨシキリ)の居ぬ間にこのような努力(プログラムされているのでしょう)をするのですが、たまたま子ヨシキリや卵が巣からはみ出ている状況で親ヨシキリが巣に戻ってきても全く無頓着です。ヨシキリはある領域内での事柄しか見えていないようです。確かに、子カッコウは(鳥類の共通認識としての)親心をくすぐるシグナル(大きな口とそれに見える羽の黄色の部分)を精一杯送っています。しかし、悲しいことに親ヨシキリは見える情報に翻弄され、本当に大事な子ヨシキリの悲しい末路には全く無関心となってしまいます。これを「ヨシキリシステム」と呼びましょう。


 ヒトの社会においては、昨今非雇用者数が増加しおそらくは社会への絶望による自殺者数も増加しています。この社会現象は、ヨシキリシステムと類似点があります。親ヨシキリとその巣からなる家庭のような単位が社会です。労働者はかわいそうな子ヨシキリです。子カッコウは経済悪化の象徴ととらえましょう。このようにとらえると、上の状況は次のようになります。


 経済状況の悪化や企業の業績悪化(子カッコウの猛威)により、労働者が社会構造から逸脱し始めます。しかし、社会は逸脱していく労働者を認知することがありません(無頓着)。(生物学的には認知はしていますが、社会構造として認知していないということです)社会は、「自分」が置かれた状況のみへの対処に精一杯注力し(翻弄され)て、本当に大切な労働者のいつ脱に対する対策を講じることがありません(無関心)。このとき、経済活動は人が作り上げたものですが、必ずしも操作できるものでもありませんので、社会はこのような猛威に対して抵抗するすべを持ちません。


 科学はカッコウの習性の動作原理を探ろうとしますが、問題はカッコウではなくヨシキリシステムであるという事に注目することが重要です。カッコウの習性は、ヨシキリシステムの中の要素としての現象です。科学においても、社会学においても、経済学においてもシステムの理解が足りないことに目を向ける必要があります。なんとか、新しい観点から問題のシステムを改善するための総合的理解に取り組んでいくことが必要です。


 ヨシキリはこのシステムを利用して、種として時間を生き抜くためにあえて個体を犠牲としているかもしれません。しかし、この場合のヨシキリの目的達成はシステムの崩壊を意味し、カッコウが種としての生命の危機に瀕することになります。種とは、これほど過酷な状況をくぐり抜けなければ生きられないものかもしれません。その後に、ヨシキリは強くたくましい種となり、カッコウはオナガを標的とするのかも知れません。


 類似性から推察すれば、人の社会も犠牲を払うことはシステムの必然なのでだろうか?単にこれを受け入れるわけにはいかないのは当然である。もちろん、この類似性が比較に値しない可能性もあり、まずはそれを願うばかりである。



私の時間軸上での形
 

「私」は時間軸上でどのような形をしているのか?


 私たちは時間の「形」を見ることができません。しかし、私たちの世界は明らかに時間の存在とともにあります。仮に時間の「軸」を外から見渡せるような視点から眺めてみると、私というより存在はどのような「形」をしているのでしょうか?


 次元が多すぎて訳が分からないので物質をそぎ落として理想的な存在であると仮定してみましょう。


 また、未来にも過去にもある範囲の可能性があるとすると光の焦点のようなものになります。それで更にこの「存在」が光のような性質を持っているとすると、光には波長があって焦点は波長以下には絞り込むことができないので、「鼓」の用な領域が焦点ということになるでしょう。


 ...こ、これは、共焦点顕微鏡の話しになってしまう。ここでの存在はどのようなものか?何かうすぼんやりとした、変な形の領域に、時間軸上にも空間軸上にも広がったものではないでしょうか?この世界では、時間が見えませんから分からないのですが、実は私たちは未来にも過去にも、また、空間的にもある範囲に存在している...と。...もしそうであれば、予知云々とか、FBIの何やら捜査とかうさんくさいお話もまんざらでもないのかもって思えて楽しい。


今日もいい夢が見られそうだ


おしまい

こころ
たくましく危うい

進む君の姿をみてる

腹立たしく微笑ましい


立ち止まり走り

心の目で周りを確認しながら

君はどこへ行くのか


人を知り自分を知る

人と話し己を知る

世界は広がり小さくなる自分


心にひろがる広大な宇宙

持て余して怖じ気づく

大きくて小さな心


バランスと平和

心地よい言葉と響く言葉

広がり繋がる心と心


従属と独立

服従と反駁

固く柔らかく全ての源


最期のとき

何を得ているのかな

幸せだったと思えるかな


研究成果報告書:生物進化

 年度末になると報告書を作成し提出する。毎年繰り返すこの作業の意味はいったいなんなのか?


 自分で行っている研究などについて自己評価を行うことは容易でもあり困難でもある。容易である根拠は、環境因子との位置関係を把握した上で研究をセットアップし主体的にこれを遂行するわけであるから、内容についての正確な記述が可能であることによる。しかし、客観性についてははなはだ疑問である。単に客観的な位置付けはどうかと問われれば、誰もがそこに少なからず疑問を抱くことだろう。「おこなってきた研究の費用対効果はどうであったか?」などという問いを投げかけられても答えるすべを持ち合わせていない。「この戦争は正しかったのか」との問いに通じる。基礎研究とはそのような曖昧な自信と未来への希望に支えられた科学的興味心を満たす行為でしかないのではないだろうか。


 ただ、「私がおこなっていることは意味があるのか」と問われれば、私のみならず「全ての人々がおこなっていることには意味がある」と答えるだろう。己を否定することはできない。こうした利己的な個々人に対して自己評価を求めること自体が、そのような評価を行おうとし、また、そうすることで自己の高評価を得ようとする利己的な活動に寄っていると思われる。そう考えると、やはり、報告書は単なる業務報告書であって淡々とこなしておけば良いものとして、利己的に記述すれば良いのだということになる。証拠を提出するのであれば、「発表」等のみを成果報告書としてまとめれば極めて客観的と思われる。もし、論文としてまとまっていない部分について考慮してほしい進行中の「成果」がある場合にのみ長々とした報告(言い訳)をする。とはいえ、一般的に証拠となる論文等の成果としてまとまるには数ヶ月から数年を要するので、実際には毎年の報告書は細かな「言い訳」に終始するわけである。


 しかし、問題は省庁の予算においても同様であるが、お金を投入したらその年度末の成果を期待されることがしばしばであることである。リストが薄ければ運営上やプログラム設定上の問題があるのだということになる。誰もがそうではなく、評価する省庁側に存在する矛盾によっている事は知っている。


 社会的なインパクトを問われてもこれは、歴史的判断に極めて近いものであって推進した本人の思惑とはおよそかけ離れているものだろう。科学であれ経済であれ人類の欲望であれ、どれをとっても我々が簡単には知り得ない混沌とした深遠さを含んでいる。だから、個々人は真のゴールを知ることなくそれでも生きるために日々努力する。ただし、おこなっていることが正しいかといえばやはり答えることはできないはずである。ましてや、そこにどのような意義があってその行為に社会的インパクトがあるのかと問われても答えることは到底不可能である。さて、「成果報告書で私たちは何を求められているのだろう?」と、最初の問いに戻ってみてもやはりそこに答えは無い。


 このような研究に関する問答そのものは、生物の進化に共通する。個々の生物は、時代時代に何をどのようにするとかしないとかの意思決定を持っていない。それでも後代になってその「意義」を理解できるような歴史として遺伝子にその過程を組み込んでいる。淘汰されてしまった生物やこれを構成した個体の「努力」があってはじめて、そのような努力のうちの一つの成功があり得たわけである。そこには、善し悪しも無ければ費用対効果もない。ただ、「利己的」に個々が「努力」を積み重ねるのみである。


 さあ、がんばろう

 



JUGEMテーマ:日常
どの蟻が優れてる?
小学生のときに蟻を観察したことがある人は多いと思います。
何匹かのかわいそうな蟻を土をいれた瓶に入れて観察します。

このときにはどの蟻も単に蟻です、よね。
誰か一郎とか花子とか名前で呼んでいた人いますか?
もし、そんな人がいたらかなり変ですよね。蟻人化!)
どうして「変」なのかというと、擬人化するための根拠に欠けるから。
擬人化する場合には自分の中の何かをそこに見いだすことができなければいけません。
少なくとも私にはそれができません。
だから、変と言っているわけです。
同じ理由からどの蟻が優れているとか劣っているとか考えません。

私たちは、生まれて死ぬまでいつも他人との比較の中で生きています。
でも、私たちは蟻の優劣を問題としない。
全く異なるレベルの知性体からすれば優劣は問題ではありません。
種族がどう生存するのか、それが問題です。
適材適所とはよく言ったものですね。
先の蟻などは特段考えるとも思えませんが作業分担していますね。

例えば、「蟻の社会」はヒトの体に例えることができそうです。
兵隊蟻は免疫機構、働き蟻は消化器官、女王蟻は生殖器官などでしょうか。
別の視点から観察すれば、それまで見えなかったものが見えそうです。
その中での役割があるのだから、優劣の問題ではないのだ、とも。

この「蟻の社会」を私たちの体に置き換えるとどうでしょう。
胃を構成している個々の細胞は「お前は劣っている」などと「思っている」でしょうか。

同じように、ヒトという種族も様々な形で組織を形成しています。
それらの組織の中で、個人は「特別な機能」を担っています。
特別な機能の担い手としての客観的な能力が問題であって、いわゆる偏差値社会における優劣は問題となりません。

常に優劣を気にしている私たちの何と薄っぺらなことでしょう。
できることを行う。
そこに優劣など存在しない。



注1:ヒトの作ったゲームの中では優劣を競うこともある。しかし、本来の種族としの性質ではないことに注意。

注2:類人猿には競争社会もあるようだが、この問題はある種の類人猿の特徴かもしれません。


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