じじ日報

<< October 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
かごの中の鳥:We need a plan B, definitely.


 
経済状況がいっこうに回復しない。どうしてこうなったのか?どうしたら回復できるのか?あるいは、もしかすると、このような状況が普通の状況であって、私たちは、今後、このような状況を生きていかなければならないのか。
 経済状況について考えれば、いろいろな理由が考えられるだろうが、全ては結果論だ。そもそもこうなる前に予測できたのであれば、いろいろな手だてをできただろうに。今更、誰が悪いとか言ったところで何も始まらないし、今我々が直面している現実からの逃避のためのいいわけに過ぎない。我々が行なうべきは、今どうするべきか。また、今後どのようにすべきかを考え対策を講じることだ。


 しかし、現状はといえば、皆現実から逃げているとしか言い表し様が無い。会社の社長がテレビ番組に出演して会社経営の危機的状況を演出する。評論家が登場してアメリカバッシングをする。政治家が増税しかなす術が無いなどという。そんなことはどうでもよい。


 日本には伝承歌がある。例えば「かごめかごめ」は誰でも知っているだろう。


  かごめ かごめ

  かごのなかのとりは

  いついつでやる

  よあけのばんに

  つるとかめがすべった

  うしろのしょうめんだあれ


 何を言っているのだか分からないが、それでも我々のおかれている状況に当てはめることもできる。我々は資本主義の籠の中の鳥なのだ。会社も鳥かもしれないが、会社で働く労働者も鳥だ。

 会社は経営困難な状況に陥ると最悪の状況を避けるため、労働者の解雇が許されている。だから、鳥はやはり労働者ということに間違いは無いだろう。われわれは、今仮に逼迫した状況に無かろうとも、可能性として誰しもがそのような可能性の中に身をさらしているという意味で、全ての人は、この状況から抜け出すことができるだろうか?結論的には、決められた枠組みの中で何をやっても無駄であると言うことができる。我々は、外に何があるのか、外の世界があるのかさえ知る由もない。そうやって籠の中できょろきょろしているばかりの哀れな夕食のおかずとなる鳥な訳である。


 我々は、勇気をだして誰も知らない新しい世界に飛び出す努力をしなくてはならない。一方で、会社は現実逃避に気付く必要があり、必要のないかけに出て死んでいく人々を救わなければならない。何を言っているのか分からないようなものは、自ら「長」の職を辞するべき。役人も大臣も同じ。あらゆる職種、階級において当てはまるはず。


 先に書いたうように、「ある会社が経営難に陥ったとき、労働者の解雇というオプションが用意されている」ことには条件がある。「経済状況が通常の時期」というのが、条件である。他に働くための受け皿があることがその理由だ。労働者にとっては他の会社で働く方が有利な可能性すらある。現在のような状況のために用意された法律ではない。よく考えれば誰にでも分かるはずだ。会社(組織)はこれを利用して、言い訳としてこのルールを使い労働者を解雇しているに過ぎない。いつも弱者が強者に搾取されるのである。


 それでは今何が必要か?皆で苦難を乗り越える勇気と努力。それだけだ。今解雇されるものがどのような苦境に立たされるか、言い訳をせずよく考えなければならない。我々は基本的人権を有し、勤労し、教育を受け、生存する権利を有している。今必要なことは、憲法に明文化された基本的な人権を尊守しつつ会社経営をおこなうことである。安いコンプライアンスを合唱するのではなく、基本に立ち返る必要がある。


 真に考えるべきは薄っぺらな資本主義とか云う生き物の将来ではないだろうか。




 写真は竹細工の藤倉商店さんから拝借させて頂きました。

美濃紙の費用対効果!?
 以前、何かの番組の中で和紙(美濃紙)を漉くときの話をしてました。私が興味があったのは簀桁(すけた)(巻き寿司を作る時の「まきす」みたいなやつが型にはまったもの)の竹ひごをつなぎ止めている糸(絹糸)の話です。


 美濃紙は丈夫で知られていますが、その理由が楮の細かな、しかし、長い繊維が縦横に複雑に絡み合っているからなのだとか。これを漉く時に使う道具の材料の一つが糸です。実は、紙漉作業は何度も何度も同じことを繰り返して均質な紙を漉いて行くのですが、このような行程に耐える強度を持つ絹糸を紡ぐことができるのが、日本でただ一人しかいないとのこと。


 若い夫婦が一念発起して伝統を継承して始めたのだそうですが、生計が立たず旦那さんが「定職」について奥さんが一人で、しかも、どこかの通路をかりて紡いでいると。泣ける話です。記憶では、建物の外観と美濃紙であると言うことから察するところ、美濃和紙の里会館でしょう。


 前置きが長くなってしまいました。私の言いたいことは、このような場合に費用対効果を語るべきでないのは当然なのですが、でもやはり経済主義の世の中で「個人の力」に頼らざるを得ないことを知り、これについて何とかしたいと思っても、やはり私たちはこの状況を容認せざるを得ないということ。結局「費用対効果」、「コスト」等々、つまらない経済主義の言葉で終始してしまって、頭では良しと思ったこととは裏腹な言い訳で納得してしまう。そんな自己矛盾を、社会を構成しているおそらくほぼ全ての人が抱えていると思います。


 このようなことを考えると、個人の集団が社会で、ここにはマジョリティーの論理が動作原理として働くものだと思っても、どうもそのようになっていないことに気がつきます。どういうことなのか?


 そう思って少し調べると費用対効果の使い方に問題があるように思います。費用対効果は「企業経営において、何にいかほど資金を投入したら、どれほど儲かるかを現状の結果から予測するときに使う用語」です。費用対効果に近い概念として「return on investment (ROI)」と言う英語があります。「見返り」を期待する意味において洋の東西を問わないということが分かります。ただし、英語の正々堂々としているのは、「広義には収益性を計ることだが、そこに特定の”正しい”計算法があるわけではない」としているところです。 


 例えば、「子どもにどれくらい投資したから、あの大学に行ってもらわなければ割に会わない」などと使うことは決してありませんよね!仮に「投資」という言葉を使うとすれば、教育の場合の「見返り」は、子どもの「知性」や「品位」、「人間性」の向上でしょう。英語のROIにおいて「特定の計算法が存在しない」といっている典型とも考えられます。計ることのできない見返りへの投資であったということです。 


 「科学研究」とは、限りなく「教育」にその概念的な性質が似ていると思います。


私は、経済主義の考えに従えば、取るに足らないが、崇高な人々に、また、そのような人々が行う事柄に対して、何らかの施しをしてあげたいと思います。まあ、思っているだけでなかなか行動できないんだけど。でも、もしかしたら、皆がそう思っていて、そんな皆の一部でも行動するとすれば、それで十分なのかもしれないとも思う。


 紙漉の話しが何の番組の一部かも定かでありませんが、たぶん西本願寺御影堂修復の際の絵の裏打ち剤としての紙の話だったと思います。


 一見、教育や科学研究の話しとは似ても似つかないと思われるかもしれませんが、「大切さ」を「お金」の単位で評価すること自体に問題があるという点で共通していると思います。


JUGEMテーマ:日常

音(おと)引き辞書を創ろう
 Kanata」というイヌイットの言葉があります。カナダの国名の元となった言葉です。Kanataは"settlement"とか "village"を意味する言葉で、いわゆるカタカナ読みでそのままの音のようです。また、CanadaにはKanataという小さな町もあります。「かなた」と云うと、我々にとっては「彼方」。彼方は、辞書の意味はともかく「遠くの場所」の意味ですね。イヌイット(Inuit: "people"の意)の人たちのことはよく知りませんが、むりやりイヌイット語(Inuktitut)を日本語と関連があると解釈してあてると、「戊亥人」、すなわち「北西の人」ですか。たしか戊亥の方角は歴史的に変化しているとのこと、「北の人」ということかもしれません。

 

 かつて人類は地球上を移動しました。氷河期の到来により食料を求めて移動したとかの説があると思います。本当の理由はともかく、もしだんだん寒くなってきて食糧難になってきた集落に住んでいるとすると、話し合いをするでしょう。どれほどの言語体系を持っていたかは不明ですが、意見が分かれて村に残るグループと移動するグループができたかもしれません。すると、「ここ」と「むこう」、「方角」、また、「距離」の概念があれば、彼らの間で「しめしあわせ」ができますね。イヌイットはもともとエスキモーと呼ばれていた人たちのことですが、調査によれば日本にも住んでいた先住民がアラスカから北米大陸に移動したといわれています。彼らの顔立ちは驚くほど私たちと似ています。トーテムポールなど目に見える部分の文化もアイヌの人々のものと共通しますね。

 

 現在の言語における意味が当時の意味を具体的に反映しているとは限りません。記述言語を持たない文化の場合、「音」のみがたよりですが、後世になって別の記述体系が出来上がる、あるいは、「輸入」された場合「当て字」をすることになります。この「当て字」がくせ者で、更に後代になると音の模倣のみであった当て字が元々の意味を持っていたかのように解釈されてしまう可能性があります。

 

 インターネットが広く利用できる環境が整ってきました。古代の文化圏を知る上でも「音引き(おとびき)」辞書が重要です。生物は遺伝情報を継続するために生きているし、また、生かされているように思います。多様な生物の一種族である人類は、言語を取得し語り伝えることで疑似体験を可能としました。さらに、文字を使うことで集団の規模を大きくできたと考えられますし、長期的に安定して情報を伝えることができることができるようになりました。この力は、生物本来の継続の目的の一部とも考えることができます。様々な形態をもつ人類の「生産物」を保存していくことも人類の存在目的とも考えられるわけです。音の情報の保存の現状がどのようになっているのか?門外漢には分かりませんが、是非、国際協力しましょう。目先で利用価値があることは、「ユニバーサルトランスレータ」でしょう。

 

 Kanataの元々の意味は「むこう」にあるまだ見ぬ「新天地」であったような気がしてなりません。厳しく苦しい生活環境を捨て新天地を目指した集団がかつていたのではないでしょうか。我々も新たな地平を目指して前進あるのみ。08/16/2007

 

参考

Canadian Information Site

先住民に関する政府のサイト


連続と不連続の狭間

 空間は連続しているが私たちが景色を見る時この連続性を感覚として認識することはまずない。


 このとき、木々や家々は独立したオブジェクトとしてそこに存在し、私たちはこれらそれぞれを認識し、また、それら位置関係をパターンとして認識している(と考えられる)。


 それでは、このような風景を写真や絵として切り取ったらどうなるのか?切り取られた絵には深度の情報が失われており全てが2次元の紙の上に並んでいる。多くの場合、ここに芸術性を見出すことは難しいのではないだろうか?もちろん、写真家が切り取る風景はすばらしい。しかし、明らかに元々の風景とは異なる。私たちは、これらを見て芸術であると判断するのだが、そこに、また、画家の描く絵に何を見ているのだろうか?


 2次元となった風景において、私たちは、3次元の空間では認識も曖昧であった連続性を見出しているのではないだろうか?写真でも絵画でも色彩やコントラストの関係に目をひかれる。もちろん時に題材そのものが政治的に、社会的に意味を持つ場合もあるが、それだけでは芸術とならない。


 そのような2次元のカンバスに展開される関係が連続性ではないだろうか?良い例として、ゴッホのタッチを挙げることができる。独特のうねるような描き方をしている。彼の絵の中では、空も太陽も木々も家々や人もすべてこの「うねり」の連続した世界に納められている。


 もちろんこの「うねり」は一般的には、不安や高揚などの精神面の表現であると言われている。しかし、このゴッホの描いた「うねり」は、潜在意識下の空間連続性を絵として再構成した表現ではないだろうか。また、このうねりによって絵には躍動感と生命力が与えられている。


 芸術家は、異なる次元の間や連続と不連続の間の概念的な関係を感じているのではないだろうか。


ヒトのカテゴリー:らくだ系



 通勤電車ではほぼ毎日かなりイライラしてます。

 うさ晴らしにそんな憂うべき人々をカテゴライズして笑い飛ばしています。ときどき


 今日は、らくだ系です。


 らくだは...なんだか良くわからない...というのが誰もが感じる印象と思います。目を見るとちょっとかわいいけど、砂漠で生きるためにまつげが長くてよく見えない。だから、表情が読めない。動物園では、なんだか知らないが寄ってきて食べ物をほしがっているのかと思えば、つばはいて「涼しい顔」をして去って行く。動物の行動学?に詳しい人ならこんな事は簡単に説明してくれるのだろう。しかし、ここではそんならくだから受ける変な威圧感と何考えてるのか分からない事への不安や不信感に注目です。


 通勤電車に乗っていてそんなに混んでいないのだが、そこそこ混んでる事ってよくあるね。それは、まったく不愉快でないのだが、どういうわけか一気に不快になる事がしばしばある。


 前のおっさんと後ろのおっさんがお尻を向けて迫ってくる。電車が加速、減速したり揺れたりするたびに5センチくらいずつ。そうして局所的な満員電車となる。これはホモの痴漢ではありません。ああ、私はおじさんですので


 「何じゃこりゃ〜?」と思って確認すると、新聞や本を読んだりゲームをしてるんですね、このような人たちは。広いスペースを確保したいがために少しずつ気付かれないように後ずさり。あ〜不愉快。その結果の局所混雑だ。


 いつもイライラして押し返したり、咳払いしてみたり、移動してみたりしていたが、「撃退法」を見つけたので報告します。奴らが「しかけてくる」のだから、そんな奴らどうしで「戦わせて」おけば良い訳です。通勤鞄にはノートパソコンが入っていて、縦方向は強度十分!というわけで、奴らの戦法に従って電車が揺れるたびに鞄を奴らにつっかい棒のようにします。すると、私はノートパソコンのスペースが確保でき、かつ、前後のらくだ君達はそれぞれが押し合っていて、「お〜とっと」って二人だけでヨロケている状態。


 「や〜い!」


 何考えてんだか分からないが、多分自分ではそれなりに自分のことを考えていて、それが傍にどう思われようと、迷惑になろうとそんな事までは考えていない。ただ、そこにある欲望を追いかける。


 あ〜らくだの様。当然うつむき加減の目線は、まさにらくだ!


 電車で読書といえば聞こえは良いが、本を読んでいる人の多くが、こんな姑息なことをしています!!!なんだかな〜。もちろんその様ではない人も多くいます。そのような人にはごめんなさい。明日もらくだ君達から護身しなければ...


 ちっちゃい!


落ちるという推進法
  私たちが乗り物で移動する時いろいろな乗り物を使いますが、とどのつまり作用と反作用の単純な原理に基づいて力を伝えていますね。車や電車は車輪を回して接地点で道路や線路を押すわけです。摩擦抵抗が小さければスリップするし、無ければ進むことができません。人が歩いたり走ったりするときはどうでしょうか?やはり同じことですね。


 しかし、よく考えると少し推進力を生み出す方法が異なっています。車は重心移動がありませんが、人の動作の多くは、歩くことも含めて重心移動を伴います。歩いているときにはあまり感じませんが、スケートをする時、特に、ダッシュしようとする時には重心の移動を実感できますね。抵抗が小さい異常な状況で走らなくてはいけませんので、けり足のブレードがける方向と90度となるようにして思いっきり蹴る。このときに転ばないためには、蹴った力に見合うように体の重心を移動する必要がある。そうすると蹴った方向に推進力が出るのですが、このままでは倒れてしまう。これを避けるためには、もう片方の足で転ぶのを避けるために体重を支える。このときのブレードの向きは蹴った足と重心を結ぶ線上に90度で置く必要がある。今度はここから重心を最初に蹴った足側に移動して倒れ込む、と同時に最初と同じように蹴る。進行方向に対して重心の移動は上から見るとジグザグ。横から見ると加速中は常に前。つまり、僕らはジグザグに前に落ちているわけです。推進力の要素は筋力だけでなく重力が関わっているわけですね。この動作の中で僕たちは重力で落ちていこうとする体を足で支える動作を繰り返していることになります。基本的には歩くのも同じですが、ただ、あまりにも誰にでも当たり前のことなので気がつきません。


 さて、宇宙での推進力といえば燃料を燃して噴出するガスの反作用ですね。これは、車と同じわけですが、人間が歩くような推進方法はないものでしょうかね。ただし、作用点がありませんので極めて困難というよりおそらく不可能。外力で重心の移動が起こるような状況を作ってやれば良いのかな。方法はたぶん任意の空間に質量を作り出すこと。宇宙船の前方に常に大きな質量が存在する状況を作れば、そこに向かって落ちていくことになりますね。...わけわからん。

環境変化の時間認識
 私たちは、環境が変わったとか変わってきたとか言うが、元々のサイクル、あるいは、自然の摂理の上に成り立っているだけではないのか。

 極端に寒いところに生物は住まないが、暖かいところには住む。暖かい寒いというのはある時点での環境の表現である。時間軸を考えれば寒いところはもしかするとそのまま寒いままかもしれないし、暖かくなるかもしれない。暖かいところは、寒くなるのか、そのままか、暑くなるのか?時間軸を考慮して推移の方向を本当は問題にしなくてはならない。

 そもそも、ヒトは食べ物があれば「寄ってくる」のだから、ヒトがやってくる前には動物がいる。動物がいるためには小動物や鳥や昆虫がいて、その前には植物がいる...要するに、食物連鎖の下の方から順に己の生活域を広げる能力があって、最後にヒトがやってくる。ヒトが住み着いてしばらくすると「やれ環境が」とか言い出すのだが、それは数年単位であったり数十年の単位であったりと非常に短期間の議論をすることがしばしばである。それ以前の状況がどのようであったか知る由もなけえれば、議論の対象ともしていない。

 例えば、寒い地域があったとしよう。この場合の寒さは尋常ではない。少し暖かくなるとどこぞやらから植物の種子が飛んでくる。あるいは、渡り鳥が落としていく。これが育つ。すると徐々に昆虫等がやってくるようになってさっきの豊かな生物の環境ができてくる。仮に途中でまた寒くなったら、移動できるものは移動し、そうでないものは凍ってしまう。それだけのこと。

 私たちはどこに行くのか。

 我々が言っていることは一つのものの見方に過ぎない。

手で水鉄砲で心臓が疲れるシミュレーション


風呂にはいってぼお〜〜〜〜〜っとしていた。

昔、父や弟やと、また、自分が父となった時子供と風呂で水鉄砲をして遊んだ。


いろんなやり方があるだろうが、

一番たくさん水を飛ばせるのが、

両手を握手するように握って親指の脇にできる隙間から水を飛ばすやり方。


で、これで遊んでみた!?

風呂に桶を浮かべて、

これに向かって一生懸命に水鉄砲!

一杯になるまでずっとひたすら続ける!

グオ〜

疲れたあ〜


桶はだいたい3リットルくらいの容量だから...

私の体をめぐる血液の量より少し少ないくらい。

これを一杯にしたということは、

その間に私の体の中でも同じ程度の血液が全身をまわっていることになる。


心臓の大きさは拳くらいというので、まあ両手だからちょっとインチキだけど。

それでも、桶がいっぱいになった時には両手の親指と人差し指の付け根がとても疲れている。

明日は筋肉痛かな


この調子で心臓は生まれてから生きている間ずっと働いているんだね。

自分の体ながらあっぱれだ!


いたわるって言ったって心労が少ない環境で働くくらいしかできないだろうが、

というのは大きなショックを受けると不整脈(同期不全による)が私はおこるので、

心臓さんくらいがんばってみようかなって少しだけ思う。


テーマ:日常
ハエの狂気


科学者はハエの空間知覚に関する実験を計画していた。


ピンポン球程度の透明球体を用意し、直径1ミクロンのワイヤをx,y,z軸として最大径の内側に張り、ショウジョウバエを交点に固定し原点とした。各ワイヤの一端を圧電素子に接続し、球体の外に固定する。圧電素子からの出力を増幅してコンピュータに取り込んだ。これで、ハエが飛ぼうとした方向を三次元で知ることができた。


一方、使用した球体は液晶あるいは有機ELの球体スクリーンとして作製した。このようにしてハエには仮想現実を与えた。例えば、明ー暗、緑ー茶色ー光などの色やパターン情報、また、画像情報などを任意に与えられるようにした。


このスクリーンに映し出される映像情報はハエの動きに連動して動き、ハエは例えば光りに向かって直進しようと飛ぶとき、真正面に明るいピクセルがあり周囲のパターンはハエの後方へと流れていくように仕組んであった。これに匂い成分を加えれば極めて完成度の高い実験装置となった。


完成したハエに対する仮想現実、世界シミュレータを使って実験を開始した。ハエはそれが現実であると認識し、やりたいことをやりたいようにやり、飛び回っている。ノートパソコンには時系列のデータが流れ込んだ。しばらくの間は、少なくともそのように見えた。


あるときハエは、はたと疑問に思った。「この世界は本当にここにあるのか?」と。ハエはいても立ってもいられなかった。どうしたら確認することができるのか。仮に周囲の仲間の存在を疑ったとしても、彼らが存在して生活しているのかすら既に分からなくなった。そんな疑心暗鬼になっている自分だけがその世界に存在し、その他の存在、世界も、宇宙すらもはや信用できなくなった。


ハエは、周囲のあらゆる仲間を攻撃した。もし、この世界が現実ではないのであれば、そこにいる仲間も現実には存在しない。だから、何をやっても良いし、なんとかして虚構の世界のしっぽをつかみたかった。しかし、何をしてみても彼の実験からは何も得ることができなかった。科学者はその間、様々なデータを蓄積していった。


彼は、もしかするとその世界が何者かによって作り出された仮想現実ではないかとの疑念を持ち始めていた。しかし、何をしてもその「世界」から出ることはできない。それでは、その誰かを失望させればその世界からつまみ出されて、あるべき世界に出られるのではないか。そう思った彼は、唯一残された手段として自殺を企てた。


こうして彼は、彼が妄想した疑念が正しかったことを証明することに成功した。なぜなら、実験者はそれ以上のデータを取得できないくなってしまったからだ。しかし、この事実を認識できたのは、彼の世界を作り実験をおこなっていた科学者だけであり、不幸にも願いのかなった彼には知ることが叶わなかった。


帰宅した科学者は、時折ハエが訳も無く死んでしまう理由について考えていた。

テレビからはいつものように通り魔殺人のニュースが流れていた。



ラッシュ時の通勤電車にオアシス出現の謎
 

午後8時くらいに渋谷で田園都市線に乗り換える


通勤電車はいつも満員


みんないらいら


そんないらいらから逃れるようにみんな読書にゲームにiPodにのめり込む


そんな毎日を過ごすうち、満員電車に謎の円形陣が現れることがあることに気がついた


乗客が内向きの円陣を組むのだ


ここで考えた


生物が生きるためには水が必須

乾期のサバンナでは水が少ない

水を飲む動物の群れは必然的に円形陣を組むことになる

動物は厳しい自然を生き抜いている


共通点は円陣!


ヒトが電車で円陣を組む理由は何か


円陣の中でおこなわれるのは主にゲーム


厳しい自然を生き抜くのは至難の業


そのに何が必要か


凝視する目線の先にはサバイバルゲーム





テーマ:こころ日常

(C) 2018 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.